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目次 1.人生とは砂中の宝塔を掘り起こす作業 2.無為自然の道 3.知者は知に医者は技に溺れ、本質の外を空回りしている 4.神的な自己の掘り起こし方について 5.天国、地獄は神性の自己が現世での我を裁く 6.純白のスーツの譬(たと)え 7.歓楽(かんらく)・煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい) 8.権力も心の自由は縛れない 9.イエスは愛、釈迦は慈悲、私は素朴な清い心を説く 10.立ち止まり心の大自然の湖を見渡せ 11.心の大自然をとり戻す運動これも正法の一つ 12.私の職位は若草色の黄緑 (一九八六年一月三十一日の霊示) 1.人生とは砂中の宝塔を掘り起こす作業 ―― 老子の招霊を行う ―― 老子 ――ニイハォ、。バンチン、オウフウテイ、ユウハァイツウ、シンワイツイワイ……(中国語で自己紹介が行われる) ―― 老子先生ですか、このような場所にお招きし恐縮でございますが、ここに中国のかつての諸聖賢方からご意見を伺って、これを霊言集としてとりまとめまして、現代および後代の人びとにお伝えしたいと存じております。またこのことによって私ども自身の勉強の資といたしたいと思いますが、何かご高説を承ることができましょうか。 老子 ハオ、ハオランツウ、アイ、ウイシアツウ……(中国語が続く) ―― お話中で恐縮ですが、残念ながら今の私は中国語を解しませんのですが、あなた様は中国にお生まれになったのが、今からおよそ二千数百年前のお方で……。 老子 ワイ、―― ―― その後この現世にはお生まれにはなっておられないのでしょうか。できましたならあなた様がお説きになられた思想の一端なりとお話願って現代及び後代人の生きる上での指針とさせて頂きたいと思いますがお願いできましょうか。 老子 ――(中国語で延々と述べる。)―― (訳) 私は今ここに、このようにお招き頂きましたけれども、私と、あなた方とは決して無縁の存在ではなくて、永年の転生輪廻の過程で共に「法」を説いて来た仲間であります。また日本というような、このような素晴しい風光明媚で、また人の知識も高まっている時代に、あなた方が生まれてこられたということ、これは非常に神の恵みの下に生まれ代わって来られたのであり、神に感謝すべきだと思います。またこのような形で、あなた方が生きておられる間に、私が通信を送れるということも、これもまた神の恵みであります。このような神の恵みに対し、私たち、共に感謝いたしましょう。 ―― あなた様は、当時の孔子様のご思想とは若干違ったご思想を唱えられたということですが――何か自然の道ということを説かれたということですか……。 老子 そうです。諸聖賢がこのあなた方の前に降りられて、様々な話をされたと思うのですが、彼らの話の大部分を考えてみると、やはり努力の教えであります。人間は何か努力をしてそして自分を高めていかねばならない。悪しき自分から善き自分へと、脱皮しなければいけない。そういった教えがやはり七割~八割の人の教えであろうと思います。 私の説いていた「無為自然(むいしぜん)の道」というのは、それとも違うのです。人間は努力はいらないのです。努力しよう、しようと思う焦りの心が、人間をして牢獄に閉じ込めてしまうのです。人間はもとより、原始より悟った神の子なのです。悟った仏の子であります。そうである人間ならば、人間は己が心を天真爛漫(てんしんらんまん)に、そして自由自在に解放することによって、はじめて本来の自己にもどれるのです。立ち戻れることができるのです。これは努力によって獲得することではないのです。今、私はあなたに古代中国語、過去世において学んだ中国語を語って貰おうとしましましたがそれが少し難行しました。なぜかといいますと、あなたの頭の中には、教えとか、あるいは特殊な能力というものは、努力して獲得しなければならないものだという考えが根強くこびりついているのです。そうではないのです。努力して獲得するものではなくて、本来あるものなのです。要は砂の中に埋もれたこの宝塔(ほうとう)、宝の塔ですね、これを掘り出す作業なのです。本来宝の塔のような存在、知恵でギッシリ詰まったそういった宝塔を、人間は自分自身の中に埋めているのです。これが永い間波風や、砂や、様々なものに当たって埋まってしまっているのです。要はこれを掘り起こすということ、自然のままの相(すがた)にとり戻すということなのです。でありますから、新たなものを決して積み上げていくのではなくて、本来あるのを塵(ちり)や垢(あか)を除いて顕(あら)わに出すということです。ですから努力努力といって東奔西走(とうほんせいそう)している人たちに対して私は言いたいのです。 人間は本来神の子であり、自分自身の中に総てが入っているのである。あなた方の意識の中には今菩薩界であるとか、如来界であるとか、宇宙界であるとか、そういった次元の意識、高い低いの意識があるかも知れないけれども、そうした差別知でもって物事を考えるのは非常に危険なことです。 喩えて言うならば宝塔なのです。すべての人間がそういった宝塔を持っているのです。それが埋もれているだけなんですね。ですから皆さん、それを積み重ねることばかりを考えるのですが、そうではなくて、たとえて言えば砂浜にそのような宝の塔が埋もれて出ているのです。この砂をですね、一階、二階、三階と取り除けていく作業をやっているわけです。そしてすべて出せばこれが如来界になり宇宙界になるだけのことなのです。よろしいですか。埋もれている部分が多いというだけなのです。ともすれば人間はこの地上に、たとえば宝の塔を築き上げるような意識を持ってしまいます。一階建、二階建、三階建、五重の塔とか、七重の塔とかそういったものを造ろうと思ってしまうのです。そうではなくて、本来なるものはみんな埋まっているのです。筍(たけのこ)のようにそれを据り起こすだけの作業が必要なのです。 その作業というのは努力ではなくして、喩えていうならば、ブルブルっと身振いをするようなものなのです。よいですか、今あなたは、たとえば中国語で話そうとして努力してそうはなりませんでした。それは何か特殊な技法があって、それを獲得しなければ出来ないと思いました。そういう考えがあるのです。私はあなたに言いました。要するに心を解放しなさいと、風穴を開けなさいと、そういったものなのです。ただそれだけのことがほとんどの人間はできないのです。心を空(から)、にすることができないのです。そういった砂を取り除くということができないのです。上へ積み上げることばかりを考えているから、自分が埋れた存在であるということに気がつかないのです。箒(ほうき)や叩(はたき)で払い除けるのと同じことなんです。本来備わっているのです。ただそれを出すだけのことなのです。これは、比喩として理解されるかも知れないけれども、本当の意味において、私の言っていることを十分理解している方は、この地上には居ないのです。あなた方仏法者、或いはキリスト教者、他の宗教者にとってもやはり修行の階梯、階段を登り詰めてはじめてキリストだとか、釈迦だとかそういったものに到達するのだという考えを持っているのです。 2.無為自然の道 老子 そうではないのです。すべての人間がそういった心性を身につけているのです。それを掘り起こすこと、その掘り起こすということもむずかしいことではないのです。埋もれた砂を払い除けるというだけのことです。こういったことが非常に大切なことなのです。これを私は古代中国において、たとえば今言われているように「無為自然の道」というようなことで説いたのです。これを人は誤解して、何もしないでいいのだと、ブラブラしろと、悠々自適というふうにとる方も居ります。それは方法論としてある程度当たっているのです。 人間は、たとえばあなた方は毎日、毎日働いておられます。あくせくと働いております。そしてたまには坐禅など組んで魂を洗おうとしているわけですよね。こういうふうにあくせくする心があるからこそ迷いが出てくるんです。そういう意味においてはあなた方、たとえば坐禅というようなものはあまり深い意味を持っていないと思っているし、どちらかというと高い評価はしていないようですけれども、心を空っぽにするというそういった修行においてはまた意味のあるものなのです。埋もれたものを発掘する。あくせくした心を払い除ける。そういう意味ですね。ですからただ、ふうふうと、のんべんだらりとするわけではありません。意識的に心を解放するということ、こういった教えも必要なのではないでしょうか。 ―― ただ一つその場合に、心を空洞(うつろ)というか、空っぽにするということは、一つはこの霊世界の法則として、悪しき霊が同時につけ入ってくるという危険性もあるのではないでしょうか。 老子 ですから空っぽにするというから、そうしたふうな誤解も受けるのですけれども、心の中のぐしゃ、ぐしゃと詰め込まれたものをですね、これを払い出すということなのです。煤(すす)や埃(ほこり)です。焦りです。いらいらです。不安です。焦燥(しょうそう)です。こういったもの、あなたも相当持って居られるはずです。こういったものを振り払うということですね。それは魔がつけ入る隙は全然ありません。逆です。むしろ魔はこうした芥(ごみ)のようなもの砂のようなものについてくるのが魔なのです。こういったものを篩(ふる)い除けるということですね。そうすれば人間は、その身そのままで、神仏の道を極めたことになるという、これが私の教えであります。 ―― そこでいま一つ考えられることは、神仏の教えというものは、既に人間神の子ということで、本来神の知恵、神の愛、神の光というものを、自身に体して生まれてきたものであると、いうことについては、それはそうでありますが、それを輝かすためには磨きをかけなければならないという教えがあるわけで、その磨きとは何かということになると、あなたのお教えによれば、払い落とすという作業を指しておられるように思いますけれども、一方の考えによりますならば、それが修行であり、努力であり、研究であり、その経験をすることによって、己れの本来の神性、光を輝かすことができるのだという考え方があるわけですが、現代人が理性の上に立って考えられることは、経験により自身の知徳を磨いていくというのが合理的な方法であるように、一般に受けとられているようでありますが……。 老子 これについて申し上げます。現代人というのは、とかく物事を順に詰め過ぎているのです。本当に必要な知識というものは、そんなに要るものではないのです。この頭中心の生活こそが、人びとをして苦しめ迷わしているのではないでしょうか。私の生活は頭から心に、心から肚(はら)に、こういった思考そのものを上から下へと下ろしていくということなのです。ですから頭で今まであれこれ考えていたことを、まず胸の問題として下ろしてくる。そして肚(はら)に下ろしてくれる。そして大きな大きな自分の中に何もかも入れてしまって、ポンポンとすべてを、包容してしまう。そして消化して出してしまう。こういった思想なのです。 3.知者は知に医者は技に溺れ、本質の外を空回りしている 老子 ですから現代人は、とかくあなたも仰った様に詰め込み過ぎる。知り過ぎる。知り過ぎて馬鹿になっていく。今の医者とか、科学者とかいうものは、言葉としては悪いかも知れませんけれども、いわば利巧馬鹿、お利巧さんの馬鹿者というものです。医者というものは自分の医学に自惚(うぬぼ)れて酔ってしまって、たとえば死というものをいろいろ研究しています。死というものは心臓が止まった時に死であるとか、脳波が止まった時に死であるとか、こういった死のことをいろいろ考えて解ったような気になっているわけです。死というのは、肉体から魂が離脱することであります。それが死であります。当然のことです。 それを肉体の器管の動きばかり研究して、分かった分からないとやっているわけです。私たちから見れば、非常におかしくて腹を抱えて笑っているような状況です。それで自分が賢いと思っているのです。本当に自分が賢いと思っているのです。これがおかしくてたまらないのです。私たちからみるならば、こういった利巧馬鹿というのが、一杯居るのです。つまり本当の死を知らなくてなぜ死んだか、何処で死んだか、生きているのかを決めるのか、そんなことに一所懸命あくせくしているんです。こういったのが医者の先端にいる方々であります。また遺伝子工学とかいって、いろんな遺伝子の組換えだとか、或いは精子と卵子の問題、こういった人工でいろんな生き物を作る試み、こういったことをやって生命の神秘が解けたなどといって喜んでいる人達がいるんです。そういったことを何十回何百回やったところで生命の秘密は解けないのです。魂の問題は解けないのです。魂の問題は魂の問題なのであります。それを知らずしていくら生物学的に分析したところで限界です。お釈迦様の掌の中で、゛孫悟空゛が宇宙の果てまで行ったと思ったのと同じことになってしまうのです。 こういった利巧馬鹿が非常に多いのです。それはそれでいいのです。知識として、技術としてそういったことを解明することは悪いことではありません。ただこれで得意気に、したり顔をするのが間違っているといっているのです。彼らは非常に可哀相であります。可哀相な方々であります。彼らは死んでこちらの世界に来ます。そして自分らの脳があることを見て、脳があるということは私は未だ生きているということであろう。心臓が動いているような気がするから未だ生きているのだろう。手を当ててみると心臓の音が聴こえるわけです。死んでこちらへ未てもですね、ということは心臓が動いているということは、医学的に見て俺は生きているわけだから生きているのである。――なんて言って親族とか、或いは子孫たちにですね、出て来ては災いを起こしている。こういった馬鹿な霊たちが沢山居るのです。これは知識で自分の思考を狂わしてしまっているわけです。心臓が動いていると思っている。霊としても暫くはですね、肉体と同じものはあるのです。同じような対応するものがあるのです。死んでその後でも自分の胸に手を当てると心臓も聴こえているのです。それで自分が生きていると思っているのです。だからいろんなところへ出て悪さをするんです。こういった馬鹿なことになるんです。要するに知識を獲得するのはいいんだけれど、本来雲的な理解のもとに知識を増やすのは、その人の器を大きくすることでいいのだけれど、利巧馬鹿が多くて困る。むしろこういう世の中であるならばもうそんな知識なんかいらないのです。自然のままに素朴な信仰に生きた方が、むしろ人間は神に近い存在となるのです。 ―― まあしかし、近年年を追うごとに、人間はその理性というものを強く求めるようになり、理性で納得できるものを真として認めるようになり、かつてのイエス様の時代、またあなた方の時代の、或いはそれ以前の時代のように人びとが素朴でなくなったということも、時代の移り変わりでやむを得ないことではなかろうかと思うのでありますが。昔であれば大黄河が流れているとか、或いはそこに大砂漠があるとか、或いは大森林があるとかいう中で人間が生きていたということによって自ずからそういうふうな、大自然と神と人間とが対峙した状態で物事を考えていたのですが、現代ではその間に汽車が走り、自動車が走り、人が塵き、ビルが建ち並ぶというふうな時代になって来ますと、そういうことになってくるのではないでしょうか。 老子 必ずしもそうとも言えないのです。まあ世の中が悪いといえば悪いのです。要するに科学者、或いは経済人、経済学者達、そうした方は勉強をした。勉強をしてその行末がこうなっているわけです。あなた方の世の中というのは、要するに勉強すればそれだけで報われる。賢いことはいいことだ、こういった世の中なわけです。ですからそうした賢い人の行末が科学者になったり、医学者になっているわけです。で彼らが言うことだからそうなんだろうと、こういうことですね、そして今の時代に賢い人がたとえば宗教家とかになるかというと残念ながら大半はそうではないわけです。そういう人たちはもっと現世的な方向へ行っているわけです。そうですね、そこに問題があるんです。ですからむしろ私はそういった賢い方々に、今まで不毛であった。最近まで不毛であった、こういった霊的世界の方に踏み込んで貰いたいと思うのです。そういった方々が全力を尽くして勉強されたならば、そして霊的世界を解明されたならば、世の中はもっと、もっと幸福になるはずです。そうした賢い人達が科学者や医学者や、工学者とかそんなものになって分かったような顔をしているから、世の人もそういった偉い人が言っているのだからそうであろうと、こう思ってしまうのです。ですからそれはそれで結構ですが、もっと霊的な世界においていわゆる現代的に言っても賢い人たちがどんどん進出してくることを私は希望するものです。 4.神的な自己の掘り起こし方について ―― 老子先生がさきほど申されました、知識を積むのではなく、埋もれた宝塔を、その宝塔の被っている砂を払って宝の塔を生み出してくるのだ、というお説でありますが、そのこと自体は一つの比喩であろうと思いますが、その埋もれた砂を払うということは、具体的に言えばどういう心的作業がありましょうか。 老子 一つはあなた方、これもまた比喩になってしまいますけれども、冬の日にですね、非常に暖かい一日というのがあります。これを小春日和といいます。こういった日に丘の上において膝を組んで大きな空を眺めてみると白い雲がポッカリ浮かんでまるで春のような気持ちの日射しです。また犬や猫たちも非常にのどかな風景を楽しんで居ります。また様々な花が咲き乱れているかのような幻想にうたれることがあります。このようなすがたは、実は天上界そのものなのです。あなたは私達の世界が一体どのような世界かご存知でしょうか。私たちの世界というのは、鉄筋コンクリートのビルディングが建ち並び、電車が忙しそうに走り、車が走っている世界ではないのです。私達の世界は素朴な世界なのです。如来界、菩薩界といわれるような世界は、はっきりいって現代世界において田舎といわれる社会と同じなのです。むしろ下の霊層の方々の方が、そういった都会社会を持ち込んでいます。今は地獄にも鉄筋何階建のビルが建っております。地獄にもエレペーターがあります。地獄にも病院があります。様々なものがあります。工場があります。地獄でも鉄板工場なんかがあって、腕を切断されるようなことがあるのです。今の世の中には、ヘルメット被って工事しているうちに、上から鉄柱が落ちてくる。こういった地獄もあるのです。非常に現代的な地獄になっています。それはそこへ行った人達の意識、働いていた世界がそうだったからです。 けれども時代がどのように変わろうとも、私達本来の天上界、神の世界においては、相変わらず、千年前も一億年前も人びとは牧歌生活を送っているのです。そこには和やかな風景があります。草花が咲き乱れ、高い丘、なだらかな丘があり、そして美しい湖があり人びとは愛を語り合ったり、親切を語り合ったり、神の子と讃えたりしています。 こういった生活に還ってくるにはそれなりの心が要るのです。私たちの世界になじむためにはそういった近代的なことを知る必要はないのです。ですから私がいっているのは荒唐無稽なことではないのです。今のような時代ではあなたの言っているようなわけにはいかないとあなたは言います。けれども私達の現に在るこの天上界においておいて上に進む程、高い世界ほどそういった素朴な社会なのです。それは事実なのです。 ―― まあそういうお説でございますが、たとえば、死と同時に大体自分が進むべき世界というのが定まるようでありますけれども、その場合に過去六十年なり七十年の、人生の間における持続してきた心の状態の決算によってそういう状態になるのか、或いは死の状態によってその行き先が決まってしまうのかということの疑問が多少あるのですが。 老子 もちろん死ぬ時の状態ではなくて、総決算、本決算でありますけれども、少なくともこの現代社会においても牧歌的な、のどかな風景の中で過ごすことができるような心の中に、そういった平安、静けさを持ったことのある人でなければ私たちの世界に来ることはできないということです。たしかに現代という時代は非常に忙しい時代です。人々は秒刻みの生活をしているのです。分刻みの生活をしているのです。こういった中において独楽鼠(こまねずみ)のように人びとは動いているのです。本来の人間から今は二十日鼠に移ろうとしているのです。二十日鼠のように集団で動き回っていることを進歩したことだと思っているのです。そうではないのです。そんなことで進歩、進化にはならないのです。ですから立ち止まってものを考える習慣のない人間は天国に縁のない人間であります。 5.天国、地獄は神性の自己が現世での我を裁く ―― まあ卑近な例で恐縮するのですが、たとえば生前の大半がそういうふうな大自然との或いは人びととの調和という形で和やかなと申しますか温い愛の気持ちで生きて来た人であって、末期におきまして外的事情により極限的な状況下で死んでいった人、そういう人はその苦しみから意外にも奈落の底へ堕ちていくということは、これはどういう事情によるものでしょうか。 老子 そのようなことは決してありません。末期において極限的な状況下におかれたというのは、イエス・キリストでもそうですし、最近あなた方のところへは、日本の明治維新の志士が出られたはずですけれども、彼らは末期においては非常な死に方をしておりますが。一時期暗い世界に留まることがある人もありますが、たちまち彼らは元居た世界へと還って来ております。そういったことではないのです。神は総合でものごとを捉えているのです。本決算です。人間は死に態とか、そういうことで行き先が決まるのではないのです。死に際が良かったとか良くなかったとかそういったことでないのです。死に際にね、微笑を浮かべて、孫達に手を握られて大往生したから天国へ行くかというとそうでもないのです。 ―― これは自らの心の比重でこういうことになるのでしょうか、それとも第三者が秤に掛けるのでしょうか。 老子 秤には掛けません、そういったことではありません。正確なことを言うと、その人自身の本来の意識、地上に出ている意識は総ての意識ではありません。その人の深層意識でもいいし、潜在意識でもいいし、霊界にある意識といってもいいです。そうしたものが自分が現象界に出て来て、身につけて来た考え方や物事を裁くのです。結局自分自身が自分を裁くのです。裁くという言葉はよくないかも知れません。相応しい処へと行って塵垢を落としに行くのです。 ―― 現在、地獄という場所がありますけれども、ここで普通単純な、単純なといってはなんですが、分からずに、知らずに堕ちて行っている人々と、一方その地獄の中でもすべてを知りつくしながら、自分の置かれた環境を反省することもなく、むしろ自分をこのようなところへ追い込んだ第三者があるとし、それを光の指導霊達の仕業とみなし、彼らに対する反抗心をつのらせ、この地獄霊の同類達が相い集まり、意識的に徒党を組んで、天上界に反抗するだけでなく、地上界にその悪想念を伝播し、地上人の心を撹乱させ、彼らの味方に引き入れ自分達の勢力を強めようとしている悪魔の連中、その頭(かしら)達、それと先程の無意識に堕ちた地獄霊との違いがあると思うのですが、こういう後者の場合の連中は゛異人類゛の連中の仕業でしょうか。 老子 そういう考えもありますが、必ずしも正しい結論に導くことはできないだろうし、また゛異人類゛という考え方を孔子様は仰ったかも知れないけれども、この現世において、或いは霊界において自分達と考え方が違う連中をつかまえて゛異人類゛゛異人種゛といった考え方は一見説明がついたようであっても、実際は何の説明にもなっていないのです。 6.純白のスーツの譬(たと)え 老子 ゛異人種゛というのではなくて実はこういうことなのです。あなた方は衣服を着ています。衣服を着て生きているうちに様々な汚れがつきますね、醤油を落としたり、或いはいろいろなシミがついたりしますね、こういったことも直ぐさま、洗剤で洗うと落ちますね。ところがこれを永いこと置いておくとシミはシミとしてもうとれなくなりますね。洗濯をしても、クリーニングをしても取れません。地獄の悪魔達というのは実はこういう方々なんです。シミができて永い間取らずにおいておくためにもう落ちなくなっているのです。そういうことなんです。ですからそれを落とそうとすると大変なことになるんです。むずかしいんです。ですからシミができる前に洗って置かなければいけないのです。早く、早い時期によく洗っておかないとそうなってしまうということです。 ―― こういう人達は自分たちでもう一回やり直そうと、立ち直ろうと思っても不可能なのでしょうか。 老子 というか、或る意味では自分達が現代の立場を選んでいるのです。天使の世界というのは、たとえていうならば、白い上っ張りです。白い衣装、純粋無垢な純白の衣服を着て人々が集まっていると思って下さい。そうしたところです。彼らもそういった純白のドレスを着ていたのです。純白の衣服を着ていたのです。それをあるいは食事中にソースを落としたり、醤油がかかったりしてそれで大きなシミをつくってしまったのです。大きなしみをつくって、それをすぐさま洗い落としにいってもみ洗いしてクリーニングに出してそれで落とした人は直ぐパーティに帰って来れたり、或いは二、三日したら、また出て来れるのですね。ところがそういったしみができたにもかかわらず、まあいいや、これくらいのシミは、と思っているうちに、また平気になって他のしみをまたつくってしまった。まあこれもいいわと思っているうちに、だんだんそういったシミが増えてきて、やがて服もズボンも真黒になってしまった。茶色くなってしまった。こういった情況ですね。そうするとその人はまあいいや、まあいいやといっているけど、周囲の人が黙ってはいないです。『どうしたのですかあなたその姿は、ここはパーティ会場ですよ、皆素晴しい白ドレスで着飾っています。あなたは何ですか、そのシミだらけの衣服は――。』そう言われるわけですね。すると本人は『いいじゃないかと、何が悪いのだ――。』と、まあこういっているわけです。何が悪いのだと最初は言っているけれどもだんだんに不調和な雰囲気ができてくるわけです。周囲の人達は折角素晴しい音楽をかけて純白のドレスを着て踊りを楽しんだり会話を楽しんだりしているのに、シミだらけの男が一人居るわけです。これは困るわけです。皆様暴力は振わなけいけれども眉をしかめているわけです。そのうちにその男もだんだん不調和な雰囲気を起こして居られなくなり、そしてそのパーティ会場から出ていってしまったというわけです。ところがそれは早いうちにシミを落としとけばいいんだけれども、もう落ちなくなっている。ですからその男は、どうするかというと、もうパーティ会場には帰って来なくなるわけです。そういったことなんです、実際は。ですから人間はそういうシミをつくる前に、よく洗い落とすか、そういった処置をとらなければいけないんです。 或いはね、こういうことです。その男は十分なお金が無い。お金が無いもんだから新しい衣服、白のツーピースを今汚してしまったんですが、彼のお父様は非常なお金持ちなのです。ですからお父様にお願いして新しいツーピースを新調して下さいと、心からお願いしたら買ってくれるんです。お父さまは非常な金持ちです。お金持ちですから買ってくれるんですけれども、そういったひねくれた男ですから、自分はもうシミがついたままでもいい、このままでいいと、開き直っているわけですね。そういった状態なのですね。これが地獄に居るということなのです。ですからお父様は非常なお金持ちです。お金持ちですから、心からお詫びして『お父様から買って頂いたこの礼服を私は今汚してしまいました。どうも済みませんでした。失礼いたしました。どうか、私は二度とこんな汚し方はいたしませんから、今度汚した場合には直ぐ洗ってシミを落とします。そして迷惑かけないようにします。パーティの皆様に迷惑をかけたのは申し訳なかった、もうこれからはこういうことはしませんから、どうか新しい礼服を私に買って下さい。』こうして心からお願いしたなら、お金持ちのお父様ですから、勿論ニコニコして『――おう、いいとも買って上げよう、新しい礼服をお前に買って上げよう。これは今までにない素晴しい礼服だよ、こんな素晴しい純白の真新しい服は誰も着ていないよ。――』こういって必ず与えて下さるのです。だから道はちゃんとあるのです。そういったお願いをしなければいけないのです。 ―― まあしかし、それができるものと、できないものとがいるわけです。出来る人はそこに反省期というものを、自分自身で十分時間をかけて、そして本来の元居た自分の世界へと還ってくるのでしょうが、そうでないものは、その反省もせず、現実の自分達の世界に居坐って、類は類をもって集まるの法則に従い、彼らは徒党を組み、さらに親分子分の関係をつくり、そのボスの言う通りボスに従って行動しているというのが現状ですが、そういう彼らに神は自由を与えられているということが問題ではなかろうかと思うのですが……。 老子 しかし、少なくともパーテイ会場には入って来れないのです。その姿では入っては来れないのです。しかしそのシミだらけの服でね、いろんな街を放浪しているんです。しかし人にすぐ見つかってしまうのです。――あすこに汚い男が来るよと言われる。それで、かまわないじゃないか、と最初は息巻いているのですが、いろんな人に指差されるとだんだん居られなくなってまた次の町へ逃がれて行きますが、そこでもまた同じようなことが繰り返されて次の町へと逃げていく。こういうように彼らは安住するところのない可哀相な人達なのです。それでもお父様にお願いしたくないと、反発しているのです。反抗心をもっているのです。帰って来て、故郷に帰ってお父様にお願いすれば買って頂けるのです。それをあくまでも自分の節を曲げないと、――俺はシミをつくった、しかしこれは悪かったとは思わない――そういう我意、我執です。自分の節に固執しているこうした姿なのです。だからあなたは自由を許すというけれども、彼ら自身そんなに楽しければいいですよ、楽しければあなたの言うとおり自由ですよ、けれども彼らは楽しくはありません。彼らの大部分は苦しいといっています。辛いといっています。それでも時折乱暴しているわけです。暴れているんです。けれどもいま言った喩と一緒で、一つの村から村へ、町から町へ動く時に、やはり人々からいろいろ指を差されてですね、厭な感じを受けてまた居られなくなるとよそへ行く、こういうことなのです。ただね、仲間が居るのです。似たようなのが居るわけです。穢い男がね、乞食や浮浪者のようなのが居る。こういった者とは話ができる。浮浪者がね、もの凄い身なりをして居るわけです。ある町にはね。それを見ると男は胸を張って言うわけです。――『俺は見ろ! 今はこれ汚れているけれども俺のスーツは純白だったんだ』こういって浮浪者相手に威張っているわけです。ですから浮浪者の方は浮浪者の方で『ああこの人は今汚れているけれども、元着ていた服は、いい服みたいだ、キットいいとこの若旦那に違いない。或いはいいとこの坊っちゃんに違いない――。』と、こういったことで敬まったりするわけですね。これが地獄の親分子分の関係の姿です。しかし誰もそういうふうになりたいとは思わないでしょう。何がよくて、何がよくないかということは、人々がそういうふうに憧れるかどうかということで決まると思うのです。 ―― まあその程度で済めばいいのですけれども、彼らはさらに味方を増やそうとしてこの三次元に生活している者に憑依したり、彼らを誘惑したりして味方に引ずり込もうとそういう態度で餌物を狙っていますが。 老子 まあそれはね、こういうことなんですよ。彼らはパーティ会場に入ってくることはできないのです。しかし、小窓が開いているんですね、パーティ会場には、そうすると、立食パーティをやっているわけです。食べているうちにまた、なかの誰かが純白のスーツ、純白のドレスを汚すことがあるんですね。――あ、汚しちゃったなと、その人は思います。洗いに走ろうかなと思っているのですね、その時に窓から顔を出してですね、『おいおいお姉さん。僕も、それ汚したけど気にしなくてもいいよ』『そのままでいいじゃないか、またどうせ汚れるんだからいいじゃないか』と、こうやって誘惑の声かけているんですね。言われてみるとそうかなと思ってね、またそのシミのままで、またその立食パーティを続けている。そのうちまたシミが付いちゃうと、また来るわけですね、『いいじゃないか、いいじゃないか』と――すると、だんだんそのシミが拡がって、先ほど言ったのと同じことになるわけですね、だから彼らは誰かに小窓から、誘惑の囁きの声を送っています。けれどもそれを聴くかどうかはね、その人自身の自由なのです。彼らも強制的にどうこうすることはできないんです。もし地獄雲達が強制的にこの世の人間を狂わすことができるなら、この世の人間はほとんど狂っています。もう既に狂っております。けれどもそうではありません。それは心に開いた小窓だけを通して彼らが話しかけることができるからです。その窓が大きくなっていると、勿論力ずくで浚(さら)うこともできるわけです。 で、その小窓とは一体何であるか、それがあなた方がよく知っている、同類相通ずるの法則なのです。彼らと通じている部分がどれだけあるかですね、最初は少さな小窓なんです。声が聴こえるだけです。それがだんだん開いてくるわけです。やがて自由に出入りできるような大きなドアになってくるわけです。ここまでくると、さあどちらが悪いとも言えない面があるわけです。どちらもどちらという意見もあります。そういうことなんです。 7.歓楽(かんらく)・煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい) ―― 現在、世相をみますと、その誘惑の世界というものは非常に大きくなりまして、ギャンブルは巷に満ち溢れているし、或いはいろんな歓楽の世界というのも充ち溢れていて、そのような享楽の風潮が世の中を風靡(ふうび)しているという現状でありますが、これは一体どっちの側がそのような世界にしているのでしょうか。 老子 ま、どちらとも言いかねるところがありますが、今私の譬えを使うならば、神の国の立食パーティですね、立食パーティ自体は素晴しいものなのです。ところが食物を食べたり、飲物を飲んだりするうちに、もちろんお酒をかけることもあるし、食べ物で衣服が汚れることがあるのです。これはパーティであるという性格上、やむをえないのですね。ただそれがいま言った歓楽にあると思うんですね。ですからそういった汚す危険性というのは誰にもあるんです。それはやむを得ないことです。ただ、要はそういったものから身を守れるかどうか、お酒がかかったら、それをすぐ洗えるかどうか、そういったことなのです。だんだん染まってしまうかどうかという、そこの一点にあるわけですね。ですから誘惑のある歓楽、あなたは歓楽といわれた。それは歓楽というものがこの地上にあるということは、或る意味においてパーティにおいて飲食をするという行為自体に服を汚すことがあるという可能性を含んでいるということ、これと同じことだと思うのです。ですから歓楽そのものを無くしてしまえばいいというのは、パーティで飲み物も、食べ物も無くしてしまえば服を汚すこともしないであろうといっていることと同じことですね、やはりないと困るのです。あった方がはなやかですし、楽しいのです。 ―― しかし現在の文化の中には、非常に危険な要素が沢山現れてきているように思いますけれど、新しい機械の発明なども人の心を物質偏重、物依存、ひいてはその性行を怠情な方向へ持っていったり、便利性が生む余剰時間というものを精神の糧の培養に使わず、かえって煩悩を益々強めるような悪材料を供給しているように思えるのですが、これなどは一体いずれの側がそういうことに仕向けているのかと判断に迷わされるふしもあるのですが……。 老子 どちらの側というあなたの考えは、非常に間違っております。仏教の言葉にも「煩悩即菩提」という言葉があるはずです。煩悩というものは、悪魔の属性であって、天使の属性ではないかといったらそうではないのです。そのようなものを、たとえば服ですね、服なら服を着てパーティに出るという話をしましたが、服など着なければ汚れないわけですね、ところが煩悩というのは、さっき言った、白い服のようなものなのです。それ自体は素晴しいものなのです。けれどもその煩悩という服はですね、非常に汚れ易いのです。白なんです。これは黒であったり、濃い色であったら汚れにくいのですが如何んせん白い服でできているために、非常に染まり易いんです。それは服が悪いのではないのです。そういったものとして作られているんです。これは別に悪魔の仕業でもなんでもないのです。汚れやすい白い服、それこそが煩悩そのものなのです。白い服そのものが悪いのではありません。それは素晴しく映えるものです。パーティにおいては映えるものなのです。ところが汚れ易いという欠陥を持っているのです。これが煩悩です。煩悩という言葉は響きが悪いかも知れないけれども、人間が生きていくための意欲であります。 ―― いかにも、しかしその白服も、いつも、着っぱなしというのはいけないのであって、程ほどに着るということが大事なんですね…。
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目次 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか 3.私の復活は、霊言を世に送ることである 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた 11.私には時間がなく、焦ったため、初期に霊的な混乱があった 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた さて本日は、今回の霊言の第1章にあたる部分で、「新復活」という題を私はつけました。新復活というと、まるで自分をイエス様になぞらえているみたいじゃないかと、まあ、おっしゃる方もいらっしゃると思います。クリスチャンでなくても、復活と言えば、そうした印象を持つ人も多いでしょう。 しかし実際の話として、イエス・キリストの時代においては、墓の中に葬(ほうむ)られたイエスが肉体のごとき姿をとって、弟子たちの前に現れたと言われています。そういう現象が見られました。それも一人、二人の前ではなく、さまざまな弟子たち、あるいは漁師たち、あるいは町の学者たち、数百人、数千人の前に姿を現したというふうに聖書では語られています。 ただこういう復活というのは、それほどイエス特有のものではなくて、イエスがやったような復活というのは、あっちこっちであるのです。イエス様のような高級霊を例にとって、幽霊が出たなどということを言っちゃいけませんけれども、イエスの復活というのは、実は肉体として甦(よみがえ)ったわけではないのです。十字架にかかって生命を奪われたイエスが肉体として出てきたわけじゃないんです。 その証拠に、イエスは数百人、数千人の人たちの前に、現れた後、昇天していっています。天上界に昇っていっています。肉体が天上界に昇っていくことはないのです。 そういうことで、聖書の中では、イエスが葬られて何日か後に墓穴を開けてみると、中にいなかったという記述になっていますけれども、これは実は、イエスを信じる人たちの一部が、イエスの遺体を運び出したというのが真相なのです。そして、そうした何と言いますか、ローマ兵たちが警備をしているような、墓穴にほうり込んでおくのではなくて、ちゃんとした埋葬をしたかったということが、その真意なのです。 ところがイエスは、復活して出てきたわけです。それは霊として復活したわけですね。しかし通常の人間は、霊の姿というものを見ることはできません。霊の姿を見ることができる者は霊能者です。霊視ができる者に限られています。 けれどもイエスの復活は、そうではなかったわけですね。霊能者だけが見えた復活ではなくて、いろいろな人たち、旅行く人たちにも見ることができた復活だったのです。 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか それでは高橋信次だって、生前の顔と体でね、じやあ、もう一回肉体を持って出てこいと言われれば、幽霊として出て来ることができるのです。 ただ高橋信次が幽霊になって出て来ると、あまりいい結果は出ないのですね。たいていは、みんな逃げ惑うのです。恐ろしくなってね。私がネクタイを締めて、服を着て弟子の前に出てきたら、弟子のたいていは腰を抜かすか、みんな逃げていきます。私が痩(や)せる前の肥った体で背広を着て、のこのこっと大森の実家に出て来ると、女房は絶対逃げ出します。あるいは失神します。 佳子という娘がおって、この娘が青山かどこかのマンションにいるんだけれども、そのマンションに私が赤いネクタイを締めて、縞(しま)がらの洋服か何かを着て、「いや、こんにちは。復活したよ」と、出て来ると、まあ多分風呂の中か何かでひっくり返るのは、間違いないんです。 そういうことで、現代では、そういうふうな原始的な復活をやると、化けて出たと言われるのは必定(ひつじょう)なのですね。間違いないのです。 ですから、私もちょっとは賢くなっていますから、そういうことはしないのです。そういうものを見て平気なのは、目が見えない方たちだけなのです。普通の人はとても堪(たま)らないのです。 私が肉体を持って、物質化して出て来ていろいろな弟子の前に現れて、握手したり話したりすると、まあ、その人の頭がおかしくなるか、その人の話を聞いた人がみんなおかしくなっていきます。ですからイエスの時代は、あれでよかったかもしれないけれども、現代の復活というのは、そういうふうなわけにはいかないのです。 3.私の復活は、霊言を世に送ることである そういうことで、私はもっと巧妙な方法をとることにしました。それは私の霊言を世に出す前に、『日蓮聖人の霊言』とか、『空海の霊言』とか、『キリストの霊言』とか、さまざまを世に問うてくれました。そして世の中の評判もそこそこ、いいようです。こういうふうに下準備をした上で、はじめて私は出てくることにしたのです。 いきなり私が霊言を送って『高橋信次の霊言』なんてやりますと、たいていの人は気持ちわるがりますから、それではいけないということで、まず下準備として、高級霊たちの霊言を世に送ったわけです。そうして、世の人たちが、確かに、これは素晴らしいと認めて、はじめて、では、じやあ、生(なま)なましいのを一発やってみましょうということで、できたてほやほやの幽霊、『高橋信次の霊言集』を世に送ったわけです。これが第一集目だったわけですね。こうして私は、現代における復活、新復活を果たしたわけです。 皆さんは私の言葉を聞いたら、生きている高橋信次が話していることと、そっくり同じだということを感じることでありましょう。また前回の霊言集が出て以降、さまざまな手紙が、寄せられたようです。私も霊の体でチョコチョコ行っては、手紙を読んだのでありますが、かつての我が弟子たちは、間違いなく、かつての師、高橋信次の声というのを感じとったようです。 なかには高橋信次霊言集を読めば、目の前に、光が散乱する姿が見えたとか、あるいは感激しました、という人もあれば、なつかしい、嬉しいというような言葉を漏らしてくれた人も数多くあります。私は、これらの声に接して非常に嬉しいです。あの世でじーっとこの機会を待っていたんですね。そして第一集を出して、私の真意が分かってくれる人たちが数多く出て来てくれたことを私は非常に嬉しく思います。 しかし高橋信次の復活というのは、そう簡単に終らないんです。皆さん、私はそんなに簡単に諦(あきら)めないんですよ。しつこく、しつこく神理というものを地上の皆さんに、これでもか、これでもかと、畳(たた)み掛(か)けていきたいと思います。 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている どんなに偉大な人であっても、地上において悟れる範囲というのは非常に限られたものなのです。たとえば、どれだけその人が頭がいい人であっても、一生の間で読める本の数は限られています。 学者さんで、せいぜい本を読んで一万冊、こんなもんしか読めません。それ以上読むと目が悪くなって眼鏡屋へ入って眼鏡を新調しなければなりません。そうすると経済的負担に耐えられなくなって困るから、学者さんでも一万冊読めばいい方です。 この一万冊の本の内容というものを見れば、たいてい地上の人間が書いたものですね。地上の人間で本を書くような人のレベルというのは、普通のレペルよりも高いけれども、やはり中身は玉石混交(ぎょくせきこんこう)なのです。 とくに神理の本なんていうのはね、玉石混交で、玉よりも石の方が非常に多いというのが現状であろうと思います。こういうものを何百冊、何千冊読んだところで、本当に悟れるかというと、悟れるはずがないのです。 ですからどんな偉大な人であっても、地上に出て、自分の得ることができる経験というのは非常に限られたものですし、また読書によって得られた知力、知識というものも、また範囲が限られるのであります。 ところがいったん、あの世の世界、すなわち私たちが住んでいる実在世界に還ってくると、もう自由自在です。私たちには無数の家庭教師たちがついているからです。つまりどんなことでもね、知ろうとすれば、すぐ知ることができるんです。なぜなら、こちらの世界では、肉体的に束縛がないために、一瞬にして他の人間が考えていることを読みとることができるし、一瞬にして、過去の歴史、現在、それから未来、こうしたもののすべてを読みとることができるからです。 それは生きている人間の気持ちであっても同様で、その人の過去世の姿、未来世の姿、全部分かります。あるいはそれだけではなくて、人類の過去、現在、未来、こういうものが、いっペんに分かってしまうのです。私たちは、そういう世界に住んでいるのです。 こういう世界に来て、今、高橋信次があなた方に話をすることができるのですから、これはどんなに地上に優れた人がたとえいたとしても、その人が知ることができないような内容を語ることができるのです。 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 けれども、こうしたあの世からの通信ということは、そう簡単にできることではないのです。たいていの霊界通信というのは、不明確なものです。不明確で、不明瞭(ふめいりょう)で、なかなか、知性と理性のある人たちが受け入れることができない内容です。ところが、今、私たちが送っている内容というのは、現代人の知性と理性に照らして、また感性に照らして、おかしくない内容、そうしたものを送り続けているのです。擬(まが)い物が多い現代において、真実のものを数多く出していこうというのが、私たちの真意なのです。 今、天上界では、宗派を超えて、宗教を超えて、高級諸霊たちが集まって、日本を中心に一大宗教改革、一大救世運動を起こすべく、全員が一致団結、力を合わせて、地上の皆様方にメッセージを送っているのです。高橋信次が出たからといってGLAの続きだけを言ってるわけではないのです。それ以外にもキリスト教系の諸霊たちも、仏教系の諸霊たちも、儒教、道教の諸霊たちも、そういうものがみんな出てきています。 昔の古い霊たちの言葉というものは、いかに内容がいいものであっても、本当に本人が言っているかどうかということが、分からないのです。そういうことで読む方も、語る方もともに不安感が残ります。 ところが、現代の日本に生きた人の霊言というのはこれは隠しようがない。高橋信次の個性というのは隠せないのです。どんなに私がいい格好をしても、どんなに私が二枚目俳優を気取っても、そうじゃないことが一発で分かってしまうんですね。 それは通常の人間は一冊の書物分だけ話をすれば、その人の中身というのは全部分かってしまうからです。私においても同じです。私がどういう霊格を持った、どういう霊人であるかということが、私の霊言を読めば、地上の人たちはみんな分かるはずなのです。またかつて我が教えを、肉声を聞いた者たちはすべて分かるはずです。そのために、私は敢(あ)えて言っておるのです。 皆さんは私以外にも、たとえば生長の家の総裁であった谷口雅春さんの『谷ロ雅春霊言集』を読まれたことがあるはすです。帰天後、わずか一年数カ月の方の霊言です。本物か偽物(にせもの)か、はっきり分かるはすです。 私もその霊言を収録する時に立ち合っておりましたけれども、こちらに来て一年早々の谷口雅春先生が、原稿用紙に書いてね、あの世の原稿用紙というのは、ちゃんとあるのです。あの世の原稿用紙にね、三百枚ぐらいを書いて、一生懸命しゃべっておったのを私はじっと見ておりました。そして霊言集の手本を見せていただきました。ああいうふうに体系だって語れば、地上にいる人たちも否定できないような、内容ができるのですね。 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる ところが前回の私の霊言集は、思いつきでしやべりましたので、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりしましたので、今回はもう少し内容を引き締めていきたいと思います。 なかには読者から手紙が来て、『高橋信次霊言集』というのが出たけれども、高橋さんて何考えているのか分からないと。一体何を考えているのですかと。あんな幼稚なことをしゃべって、女、子供を相手に説法しているようじゃだめですと。高橋さんの本を一生懸命読んでみて、あれだけご尊敬申し上げておったのに、こんな内容じゃ、がっかりした、なんて手紙をよこした人もおりました。 そこで、私は、前回の『高橋信次霊言集』の意図について簡単に言っておきたいと思います。私の意図は、こういうところにあるのです。つまり、神理っていうのは、どんなやさしい言葉ででも、語ることができるものだということです。神理というのは、そんな学者みたいに勉強しなけりゃ学べないことじゃないんです。そういうふうに勉強に勉強して、学者みたいに学んだ結果、はじめて悟れるというようなものの考え方が、仏教の堕落(だらく)を招き、キリスト教の堕落を招いてきたのです。 キリスト教においてもそうですね。聖書のどの部分に何か書いてあるのかというものを訓語学(くんこがく)のようにつっついて、つっついて、やっている。そして、牧師さんていう商売が成り立っているのです。 あるいは仏教においてもそうです。今、お経を読んで一般で分かる人はいないです。絶対分からないでしょう。その上、専門の学者たちはサンスクリット語をやったり、あるいは漢文を勉強したりして、解釈して一日を過ごしておるわけです。しかし、そんなところに本当に仏教の真意があったかどうかということをよーく考えねばいけない。 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 仏教というのは、今から二千六百年近く前、お釈迦様がインドの地において、まわりの衆生(しゅじょう)たちに説法した記録なのです。そして当時は、現代のように、テープレコーダーがなかったために、そういう話を記憶しておって、後で結集してまとめた話なのです。いわゆる話し言葉であって、書き言葉ではなかったのです。仏法というのはね。 ですから、お経の本当の内容というのは、対話篇だったわけです。お経というのはそういうもので、本当は対話篇なのです。釈迦と、その弟子との対話篇だったわけです。 そして釈迦の言葉というのは何かというと、生きていた人間釈迦、人間としての釈迦の頭脳で考えた言葉だけが、すべてではないのです。お経の中の釈迦の言葉というのは、そうじゃないんです。現代、私たちがこういうふうに語っておるように、今から二千数百年前の、釈尊(しゃくそん)の言葉の中には、高級諸霊たちの言葉がいっぱい混じっておるのです。 釈迦の言葉の中には、まあ、口幅(くちはば)ったいですけれども、生まれる前の高橋信次の言葉だってお説経の中には入っております。法華経だの、何とか経だのいっぱいありますけれども、その中の釈尊の言葉の中には、あの世から指導していた私の言葉もあります。あるいは、イエスの過去世の方の言葉も入っています。モーゼの言葉も入っています。そういうふうに、いろいろな方がたの聖霊の言葉が釈尊に臨(のぞ)んで、語っておったのです。 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 地上の人たちには、これがなかなか理解できないでしょう。ただ、こうしたことはいわゆる霊媒現象(れいばいげんしょう)とは違うのです。そうではないんです。本当の救済者が現れた時に、天上界の諸霊たちはこぞって、そのメッセージを地上に伝えていくんです。 ま、イエス様でもそうです。イエスは、そのお弟子たちを教育して、各地に伝道のために派遣しました。その時に弟子たちは、「イエス様、私たちは、地方に行って、人びとに何を語ったらいいか、その言葉が分かりません。どういうように言って説法すればいいのですか」、そういう質問をしました。その時イエスが言った言葉は、「汝ら、何を語るかということを悩むなかれ」と。「行く先ざきにて汝らの語るべき言葉が、汝らのロよリ出ずるであろう」。そういうことをイエスは言いました。 それはどういうことかというと、まさしく説法しようという時には、そのイエスの弟子たちに高級諸霊の言葉が臨んで、彼らが語ってくれるということなんです。ですから本当の救済者たちが出た時には、必ず高級諸霊たちの言葉というものが、その中に入っておるということです。 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした さて本日の講演の目的は「新復活」ということでありますから、それについて、今しばらく話をしたいと思います。私は自分のことを自己紹介も兼ねて、少々話をさせていただくとすれば、昭和のはじめに長野県に生まれて、それから戦前、戦中、戦後という時代を経てきました。戦後の混乱期を経験し、独力で、電気関係の事業というものを起こしました。まあ、コンピューター機器関係ですけれども。そうしたものを起こしてコンピューター技師としても、仕事をしておりました。また事業家、実業家として、何十年かの人生を生きてきました。 そうした中において、十歳の頃からさまざまな霊的な現象というものに見舞われました。十歳の頃から、何度も死ということに見舞われました。私の両親は、毎晩私が死んでしまうというような現象に見舞われて、大変心配していました。毎晩八時頃になると私の呼吸が止まってしまって、意識が急速に薄れていく。そしてもう一人の自分というのか、自分の肉体から抜け出して、この地上を見渡しているという経験を何度もしました。 もう一人の自分が、寝ている高橋信次から抜け出すと、私の父や母が大変心配して、お前、どうしたんだと言って揺り動かしている姿、あるいは医者を呼びにやっている姿、ほっぺたをつねっている姿とか、いろいろなものが見えました。そういうふうに肉体と魂の分離ということを、私は十歳の頃から経験しました。そうして、さまざまな神秘体験を経ていきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。 二十代の頃にはよく予言が的中しました。いろいろな予言をしました。そういうこともありましたし、さまざまな霊的現象も身のまわりに起きてきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。そして事業家としてだんだん事業欲を出して、いろいろなことをやってきました。 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた やがて浅草に八起(やおき)ビルを建てて、これからいろいろな事業をやろうと思っていた矢先に。高級霊からの厳しいメッセージを受けました。とくにワン・ツー・スリーと名乗るモーゼの霊に、非常に厳しく叱りつけられて、「高橋信次よ、お前の使命は、そんなところにあるんじゃない。お前は、電気屋や風呂屋になるために生まれたんじゃないぞ。お前の使命っていうのは一大革命、一大宗教改革であり、救世のための露払いの役がお前の役割であるぞ。お前は、それを果たさずして電気屋で還って来たんでは、お前は打ち首だ。イエス様は生きていた時に地上で打ち首になったけれども、打ち首じゃなくて十字架にかかったけれども、高橋信次はあの世に来てから十字架にかけてやる。覚悟しろ」と、こういう言葉が私に臨みました。私はびっくりしました。これは大変だと。 今までは会社さえ大きくすればいいと思っていたのが、それではすまないと言われました。「お前は、人間の心を究明して、世の人びとを救いなさい」と。こういうことを言われました。そして四十一、二歳からだったでしょうかね、四十八歳で亡くなるまでの七年間、足掛け八年ぐらいになりましょうか。その間、私の伝道というのが始まったわけです。そしてさまざまな著書を出し、講演をし、個人相談をし、神理の種というのを播いていったわけです。 11.私には時間がなく、焦(あせ)ったため、初期に霊的な混乱があった ただ私には時間がなかったということと、焦ったということのために、十分な法というものを説けなかったという点が残念に思われます。完全なものではないのです。やはり、こうした霊的なものというのは、周到な準備をし、準備期間を置いてから伝道を開始すべきであって、霊の囁(ささや)くことをそのまま受け取っているのでは、まだ十分ではないのです。 三年、四年の準備期間を置いてはじめて、霊的なものということの自覚ができるのですね。それをせずして、私は伝道を開始したために初期の混乱がたくさんありました。 たとえば私自身はゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)ではありませんでしたけれども、私は初期において、ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏であるかのように自分で思っていた時があります。 なぜそう思ったかというと、自分自身、不思議でありましたけれども、過去世の釈迦の姿というのが目に見えたわけですね。二千数百年前のお釈迦様がインドにおいて修行されて、悟られて、伝道されたようすがありありと見えたわけです。つまり、霊視し、見ることができたわけです。そうして当時の模様とか、当時の弟子たちと話した言葉というのが手に取るように分かったわけです。 こういうことがあったために自分自身、釈迦だと思っていた時期がありました。しかし、そうではなかったのですね。これは天上界の指導霊たちの力によって、釈迦の過去世というのを見せられとったわけです。つまり私は、『人間・釈迦』という本を書きましたけれども、そういう本を書くために釈迦の過去世を見せられておったわけです。 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 つまり、私の今世の使命、地上での使命というのは、本来の釈迦仏教を広めることだったのです。原始の釈迦仏教の本当の姿を現代の日本で再現するのが、とりあえず私の第一段階の使命だったわけです。こうして露払いの役割をするということであったわけです。 そうして第二段階の使命が、地上を去った後、天上界に還ってから、高橋信次として、こういうふうに霊言を続けていくということだったわけです。 かくいう私は、かつてモーゼを天上界から指導したことがあります。モーゼという人が三千二百年も前に出て、「出エジプト」をなして、カナンの地を目指して旅をしていた時に、モーゼに十戒(じっかい)を与えたのは私です。またそれ以外にも、マホメットがイスラムの地に生まれた時に、アラビアの地の洞窟の中において、マホメットに啓示を与えたのも私です。あの『コーラン』のもとになった啓示を与えたのは私です。そういう十戒とか、コーランを与えた私が、今また、高橋信次の霊言を伝えようとしておるのです。 かつてのものは古いものです。しかし、現代のものは内容も新しい。新しい教えというものを説いていくつもりです。そのために私は、現代の日本に肉体を持ったのです。肉体を持った私として語ったことは、私の考えのすべてではないのです。私は高橋信次という生命体があるということを、地上の皆さんに知らせる必要があったのです。私は実在界においては、アール・エルランティと呼ばれておりますけれども、エルランティという魂があるということを教えるために、知らせるために、私は現代の日本に肉体を持ったのです。 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 そして次なる私の仕事は、天上界にいて地上の皆さんを指導すること。この第二段階目の仕事が、私の本来の仕事なのです。このために私は地上に肉体を持ち、このために私は四十八歳という働き盛りに短い人生を終えたわけです。 そして第二段階として、私の後に偉大な指導霊を出したわけです。彼自身でも十分、法を説いていく力があるけれども、それにもまして、その前の段階から出た私が、天上界から直接のメッセージを送ることによって、その力を二倍、三倍にしようというのが、今回の計画だからです。そして私は、その本来予定されていた事業に今とりかかりつつあります。これが私の本来の目的だったからです。 私の死後GLAにおいていろいろ混乱があったと、その後、取り沙汰(ざた)されています。けれども、皆さん、それは混乱のための混乱ではないのです。私が新しく復活するための、新復活の前の混乱であったということなのです。 イエスが十字架にかかったのち、混乱した弟子たちの前に現れたように、高橋信次がまた甦(よみがえ)ったのです。新復活をなしたのです。これから私の復活の言葉は続いていきます。 地上の皆さんは、私のこの真実の声を、どうか真剣に受け止めていただきたいと思います。本当の意味で、あの世の世界があるということ。そしてあの世の指導霊たちがあるということ。高級霊たちがあり、神近き霊たちがあって、地上の人たちを見守っているということを私は実地に、それを皆さんに示すつもりです。 霊言集も一冊、二冊ならその真実性を否定する人もいるでしょう。しかし、五冊、十冊続いたならばこれを否定できますか。これが創り物だといえますか。どうか地上の皆さん、これが本物かどうか、よーく読んで、とくと考えてみて下さい。 私の霊言は今後も続いていきます。以上がとりあえず、今日の第一日目の「新復活」についての講演です。
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 1.新しき時代の前ぶれ まず、新人類の予兆というテーマをあげてみましょう。このなかで語られていることは、時代の端境期の様相です。新しい時代が来るときにはその前触れがあって、同時代のなかに次の時代を予想させるものがすでにあるということです。 今、霊言・霊示集を読んでいる私たちは、新しい時代がどうやら来るらしいと感じているわけであります。ところが同時代に生きている多くの人にとっては、それがなかなかわからないのです。しかし、今から千年後、二千年後の立場に立って今の時代を見たときに、みなさんが、いったいどういう時代に生きているのかということを想像するとおもしろいと思うのです。 たとえばイエスの時代であるとか、旧約の予言者の時代などを、いま私たちは聖書を通して知ることができますが、あの時代に生きていればやはりおもしろかったと言えるのではないでしょうか。しかし、時代の流れのなかで、そうした大きなことが現在、起きているのです。後世の人も、必ず今という時代をふり返って興味を持たれるだろうと思います。私たちは毎日毎日のなかに生きているので、意外に当然のことのように思って、それほどのことには感じていない人も多いのです。 ①「鉄の時代」から「太陽の時代」へ 今、ここ一万年ぐらいのサイクルで、ひとつの文明が終わり、新たな文明に入ろうとしているのです。この文明は、後の世にはおそらく、「鉄の時代」と呼ばれるようになるでしょう。その理由は、鉄というものを使っていろいろな機械が発明され、時代が進歩し、そしてそれが文明の象徴になったということです。また「鉄の時代」の別名としては、「知性の時代」あるいは「知の時代」とも言われるでありましょう。 そして、次に来るべき文明の名は何と呼ばれるかと申しますと、これは「太陽の文明」と呼ばれるのです。「新しい神理」の太陽が昇りくる時代の文明という意味を持っています。いったん沈んだかのように見えた「神理の太陽」がふたたび昇ってくるという『太陽の法』のメインテーマ、そのままの時代になり、後世の人々から輝ける「太陽の時代」と呼ばれるようになるのです。このことは、はっきりと予言をしておきたいと思います。 そして、その「太陽の時代」のモチーフの部分は何かといいますと、「悟り」ということなのです。「悟りの時代」が前面に出てきます。ですから、時代的な考え方からみれぱ、この『太陽の法』が出たということは、まことに画期的なことなのです。まだ多くの人はそのことに気づいておらず、数万人ぐらいの人にしか読まれていないと思いますが。実はこれは大変な意味をもっているのです。ひとつの時代の端境期に出た、時代を区切るための書物であるのです。 その内容については、ノストラダムスがすでに予言していたということを前に述べたことがありますが、次のように、はっきりと予言しています。「東の国で『太陽の法』が説かれるときに私の予言が終わり新たな時代が始まる。」とたしかに、記されているのです。ノストラダムスの書物のなかで、「太陽の法」という言葉はたくさん出てきています。ただ、この予言の価値づけがはっきりわかるのは何百年か後になるようです。同時代で気づく人もいれば、気づかない人もいるという意味合いがあるのです。 ②人類の秘史を学ぶ 『太陽の法』という本一冊にしても、相当の霊的能力といいますか、単なる人霊の部分を超越した、アーカーシャーの力を引き出して書かれています。かなり人類全体の知恵の部分、秘史の部分が、明らかにされて出てきています。もちろん内容全般にわたるものではありませんが、かなり具体的に出てきております。 ですから、最初の段階でこの本を読み、勉強しているみなさんというのは、後世の人から、ユダヤ的に言うならば選ばれたる人たち、預言の民と呼ばれても然るべき感じであると思います。ですから、あの世に還ったときには自慢になるかもしれません。 さて、現文明の特色は、知性という部分であったと述べましたが、学問的知性の部分がそうとう強いようです。これに比べて、それ以前のアトランティスは、理性を中心にした文明が栄えていたといわれておりますが、そこではマイトレーヤ如来、クートフーミーなどが活躍していました。さらに、それより古いムーの時代の文明は何かといいますと、光エネルギーの文明でありました。それからさらに前には、インド洋上にレムリアという大陸があって、この時代は感性が中心の文明であったわけであります。ムーの時代には、ランティ、カンターレなどが活躍していましたが、レムリアはマヌとゼウスが中心となって感性の文明を創っていました。 2.感性の文明とは ①色彩感覚 レムリアという感性の時代において、最高度に修行を積んでいた人は、三千種類の色と、二千五百種類の匂いを区別することができたのです。考えてみれば、なるほどという感じはすると思います。みなさんは、色の区別は何種類くらいつけることができるでしょうか。クレョンでは12色や24色の色がありますが、普通の人であれば、24色ぐらいを区別することがせいぜいではないでしょうか。 私も別に遊んでいるわけではありませんが、私もたまにクレヨンで絵を描いたりしています。指導霊のなかには芸術家もおられ、霊言では十分に表現できないので、たまに出てこられるとやはり絵を描きたくなることもあるらしくて、そのときに描かせてあげるのです。ピカソが出てきて水彩画を描いたり、マチスが描いたりします。こうした色彩感覚や調和感覚、デザイン感覚のようなものは現在の文明のなかで確かに一部分、デザイナーや画家などには生きています。しかし、今日これが主流として前面に押し出されるということはそれほどありません。 ところが、今日みなさんはいろいろな色、デザインの服を着ていますけれど、もし、こうしたことで点数がつくような感じの文明であればどうなるかです。パッと見た瞬間に、あれは九〇点を越えるくらいの感覚である、これは七〇点くらいだというように、その人の色彩感覚のレベルがわかるのです。このようなことが認識として明確にわかるとすればどうでしょうか。そうなりますと、そのような美的感覚がひじょうに優れている人が上流階級をつくってゆくわけです。このような時代があってはおかしいかと言うと、そうでもないような気もいたします。 私たちはある意味では、色彩について現在、鈍感であるかもしれません。流行というものがあって、今年は何色が流行、などと言われて、そうしたものを着て歩いているけれども、主体的にどういう色がどのように好きなのかと問われたならば、わからないのではないでしょうか。しかし、色の好みのレベルはあるはずです。 『ピカソの霊言』を読みますと、色を司る天使のような存在があって分担してやっているということですから、やはりレベルがあるようです。ですから、このような感性の評価がもし主流になればどうかといいますと、ベストドレッサーが総理大臣になるような、そのような時代がないとは言えないかもしれません。それが人間としていちばん洗練されているという見方をすれば、そういうことになるわけです。 三千種類の色が見分けることができれば、これはそうとうなものです。私たちは二四色くらいしかわからないけれども、三千、二千、千、五百種類のというふうに、いろいろなレベルの差、実力の差があるわけです。微妙な色合いがわかるというところが人より優れている、洗練されているというわけです。このような世界があってもおかしくはないのです。 ②匂いのセンス また、私たちは匂いについても案外に鈍感です。私たちが特に敏感なのは、嫌な匂いで、一般的に臭いということで表現されていますが、どのように臭いかといわれますと、私もよくわからないのです。また「いい匂いだな」とは思うけれども、そのいい匂いというものの表現がどこまで的確に、みなさんできるでしょうか。このあたりに語彙がそうとう不足しているのがわかると思います。たとえば何の花の匂いに似ているとか、植物の名前であるとか、そうした比喩を出してこなければ説明ができないわけです。もし、その人が、その植物の名前を知らなければ、それで終わりです。これ以外に、匂いということに関して何か言えましょうか。私たちは、二千五百種類の匂いを説明し分けることができるかといいますと、できないのです。 ところが、最近の先端産業といいますか、ニュービジネスのなかでは、匂いビジネスというものも流行(はや)ってきているようです。女性が中心になって、匂いを売るという仕事をやっているそうです。そして、たとえば、ファッションショーのときに匂いの演出、パフォーマンスを繰りひろげるのです。あるいは立体映画のように、匂いがパーッとひろがるようにしたり、あるいは潮騒の匂いなどを漂よわせて、観客に海にいるような感じをかもし出したりするというような匂い産業が、けっこう何億、何十億円の市場に成長してきているそうです。このような人たちは、この時代の昔の記憶、パーニャーパラミタが出てきているのでしょうが、私たちにはあまり出てこないようです。 3.文明で変わる価値観 このように考えてみますと、人間が生きがいを感じたり、あるいは値打ちを感じることは、意外にいろいろとあることがわかります。このように感性の最高度に進んだ時代に生きた人から見れば、私たちがいかに鈍感で、服装にしても何を着ていようがかまわず、匂いに対しても全然センスがない、それで生きていられるということが、まことに不思議で、かわいそうな人びと、いってみれば奴隷階級に見えるはずです。そして知性が中心ではない文明の人びとであれば、今のように一生懸命に本を読んで勉強しているということは、何と憐れな人間たちだろう、というふうに見るでしょう。眼を悪くするまで本を読んで、そのはてにめがねをかけるようになり、悪循環でますます近眼になるという姿は、なぜあのような馬鹿なことをしているのだろう、目を一生懸命悪くしている、というふうに見えるわけです。たいへんおかしなことと感じると思います。 こうしたように、いろいろな文明が移り変わるなかで価値観は変わってきているのです。私たちの魂は、さまざまなところでそうした修行をしてきており、魂の器そのものがいろいろな訓練を受けてきているわけですから、この地上の生活も、その文明に固有の変わったことがあるので、あきることがないわけです。 たとえば、抜群に体格のいい人や運動能力のある人はオリンピック選手にでもなれればもちろん評価されますが、それ以外の人は、仕事ができるとか、勉強ができるとかいう尺度で評価されます。それは今の時代がそうだからです。ところが時代が変わると、評価のうえでいま下にいる人、ほかの特長のある人、たとえば匂いに敏感であるとか、微妙な色合いがわかるとかいう特長をもった人が上がってくるのです。このようなことをいろいろと経験して体験を積んでいるのです。 価値観の多様性という話をしておりますが、それも単に教えの多様性ということだけではなくて、私たちが生きてきた時代そのものに、こうした価値観の多様性があったということを考えあわせることが、ここに、大いなる芸術的な見地があるということです。神は人間にいろいろな何かを悟らせようとされているのです。今私たちが是としている価値観が、すべてに通用すると思っては、ほんとうはいけないのであって、いろいろありうるということなのです。これを知ることが、黄金の時代を知ることにもつながっていくと思います。それぞれの文明が栄え、そして滅びていった話を私はしてまいりますが、それはSFでも何でもありません。もしかすれば、私たちも生きているうちにここに書かれているような出来事を目撃することになるかもしれないということなのです。 4.ゴンダアナ文明と霊文化 ①真・大陸移動説 ゴンダアナ大陸とは、九十六万二千年前に、海底火山の爆発の後に隆起してできた大陸です。現在のアフリカ大陸と南米大陸とを結ぶ海域がその位置していた場所です。そして今から七十三万五千年前の大陸の分裂移動という前代未聞の大事件により、ひとつの大陸が消え、ふたつの大陸の出現をみたのです。過去に、こうしたことが、ほんとうにいろいろと展開しており、大陸が浮かんだり、沈んだりしていたわけです。 現在、大陸移動説というものが地球物理学のほうでも提出されています。プレートテクトニクス理論というものですが、彼らの理論からいえば、すべての大陸がひとつになっていた時期を三、四億年前と考えていて、それが徐々に今のように広がっていたと考えているようでありますが、実際はそうではありません。やはりその間にものすごい変転があったのです。それは数十万年単位で浮上したり沈んだり分裂したり、けっこう変化に富んだおもしろい推移があったのです。 ですから、アフリカの、今のエジプトあたりの土地はかなり古いのですが、あのあたりにしても、ずいぶん上がったり下がったりしています。山脈のようになったときもありますし、いったん海底に沈んだこともあり、また今のようになったこともありまして、いろいろと変わっています。 このゴンダアナという大陸はそうとう大きな大陸で、主として南米とアフリカがひとつの大陸であった時代のことをいっているわけです。それ以前に他の大陸とくっついていた時代もありましたが、百万年前は、そのような状態にありました。そして、大陸の分裂移動という大事件が起きたのです。 今の大陸移動の考え方では、マントルの対流によって、浮かんでいる大陸が動くという説明をしています。そこでは、プレートと呼ばれる固い岩石の層が地球の表層を、一年間に何センチずつか動いていくというのです。たとえばハワイにある島は一年に二、三センチくらいずつ日本のほうに近づいてきています。そして日本海溝のほうは、何センチかずつやはり沈没していっているのです。このままでどんどんいけば日本列島が沈み、あちらのハワイのほうの島がだんだんと日本のほうに寄ってくるであろうというような説明をしているのです。 ただ、その移動の速度を測っているのは現在の観測結果です。しかし、これはやはり変わります。地球自体が生きているからなのです。地球はひとつの肉体であり、マントルの対流というものも、これは地球自体の血液のようなものなのです。ですから地球という、生命体に異常事態が起きたときには、これはそうとう激しく動きます。したがって、マントルの対流の速度にも、いろいろな変化の時期があります。今のマントル対流がこのような状態であるから、同じようにずっと来たのかといいますと、そのようなことはありません。やはりいろいろな変動をしているのです。 ②男女間の超能力の違い さて、このゴンダアナ文明が栄えたのは、今から七十六万年前から、大陸消滅までの約二万五千年の間くらいの期間でありましたが、ここは超能力を中心とする文明でありました。 当時は男性の身長がニメートル一○センチ、女性が一メートル八○センチくらいが標準であり、かなり大きな体格でした。特徴のひとつは、男性には第三の眼が眉間のところにあったということです。ヨガで、チャクラとよく言いますが実際に、肉体的にもそこに眼があった時代であったのです。 現在は、二つの目だけで見ているような気もいたしますが、感覚的に見ても、霊視などができたりするため、やはりこの眉間のあたりで見ているような感じが、私はそうとう強くします。この時代の痕跡があるのだろうと思います。 この眼は超能力を発揮するときだけ開いたということですから、一つ目小僧のようでありますが、普段は閉じていて、いざ超能力を発揮するときにだけパッと開くのです。そうしますと、女性はそれが怖くてパッと逃げるわけです。そういうことで女性が従たる立場に置かれた、ということも言われています。 しかし、ゴンダアナの末期の神話として語られているものとして、「神は、人間の男女を平等につくられた。その証拠に、男性は、自分の身をまもり、一族の安全をまもるために、第三の眼が与えられ、女性は、一族の繁栄のために子宮を与えられた。」ということもあります。 おもしろい平等思想であると思います。この第三の眼によって超能力を男性は持っているが、女性も超能力器官を持っている。それは、一族の繁栄のための子宮であるというわけです。そして、この超能力器官によって、女性は霊天上界と交信ができて、子供となるべき霊を身に宿す前に面接試験ができたというのです。そして、両者合意のうえ、宿したということですから、現在のような人工流産もなかったようです。 内も子供が生まれてくる前に、子供と話をしていました。その会話もテープに収録してあります。一九八七年の四月くらいであったでしょうか。そのときには、すでに生まれてくるのがわかっていました。生まれる本人が「私がこれから出ます。」というので、その準備期間中のことであったようです。 それは、だいたい一か月と少し前くらいから生まれる準備を始めるらしいのです。そして、どのような人生を送るのかをテープに全部吹き込ませてあります。ですから、この計画と実績のズレを、これから分析することができるわけです。本人の計画と実際の人生がどうなるのか、これはまさに実験をしているのと同じで全部わかってしまいます。 約三〇分間くらいの時間をかけて自分の人生の予言をしております。本人に言わせれば、自分は勉強はあまりしたくない、だから、詰め込み教育は止めてほしい、しかし私は早熟の天才となるであろうなどと、いろいろと言っておりました。このようにして一生を予言しております。今後、彼の人生をたどっていくとおもしろいと思っております。 実際に宿るときはどうなるかということについてでありますが、肉体に宿る直前には、やはり交信ができない状態になるのです。生まれてくる前にカプセルのようなものに入るからなのです。 霊界には、そういった産卵場ではありませんが、何か生まれ変わりセンターのようなところがあって、そこにいき、やはりひとつのカプセルのようなもののなかに収まって、冬眠状態に入っていくのです。そして、霊体自体がひじょうに小さなものになっていきます。 ですから、一か月と少しの間は話ができなくなりました。交信がほとんど不可能な状態になるわけです。そして、その後、魂が宿った時期がいつであったかということを計算すると、満九週目に入ったときでありました。家内はそのとき大きな白い犬が出てきて遊ぶ夢を見たのですが、どうやらそのときに入ったようです。 そして宿ったあと、一週間くらいは話ができました。そのときは私もずっと話をしていたのでありますが、まだこのときには本人も大人の意識で、あまり変わりはありません。二か月ちょっと、三か月にならない胎児でありましたが、ずいぶん難しいことを言っていました。 これがやがて「バブバブ」としか言えなくなるのかと、かわいそうだなと思っていたわけですが、一週間くらいはしっかりしていたのです。その後赤ちゃんみたいなことを言うかと思っていますと、急に難しいことを言いはじめたりするという一定しない状態が三か月目ぐらいのあいだ続いていました。 そのうち意識的には、だんだんと赤ちゃんのようになっていきました。七か月目ぐらいに入ったときには、赤ん坊としての意識として話ができるので、おもしろかったです。 ですから、ゴンダアナのときはみんながこのようなものだったわけです。向こうの要求がわかりますし、こちらの話しも通じるのです。 テレパシーでも話ができるのですが、おもしろいことに赤ん坊の霊言もできるのです。言いたいことがあれば、私のロを通じてしゃべることができます。霊言自体は、たいしたことありません。「パフパフパフ」から始まって、何とかが痛いとか、欲しいとかが中心です。もう少し意識が目覚めていたときは、あまり勉強させられると困るというような内容でした。中国系の魂なのですが、家内が論語などを読んでいると、系統が違うものですから嫌がったりして、自分は勉強が嫌いだなどと言ってきたりしていたのです。家内が自転車に乗ったときには、揺れて頭を打ったのでしょう、「自転車痛い、乗るの止めて。」と言われたりして、それ以後家内は自転車に乗れなくなったのです。そのようなことを要求してきたこともありました。 魂が肉体に入っているので、普通の霊言とは少し違うようです。しかし、このような状況であると、普通の地上の肉体とは違って出入りがしやすいのでしょう。まことにおもしろいのです。胎児の言いたいことが、全部わかるのです。 ですから、ゴンダアナのときも、実際こうだったのだろうなと思います。胎教であまり英語はやらないでくれなどと、要求もいろいろするのです。みなさんも、もし女性でこれから出産される方で、霊道を開いたならば、お腹のなかの赤ちゃんと話ができるわけです。何が言いたいかが全部わかります。 それと、霊道を開いた場合の女性は、つわりがありません。つわりの原因は、たいていの場合、母親の肉体意識があまりにも三次元化してきているためで、それで苦しいのです。赤ちゃんが宿るときというのは、この子宮という霊能器官に宿るわけで、ブレが起きるのです。超能力器官ではあるけれども、心が澄んでおらず、錆ついていると、その意識のズレがそうとう出てきます。このときに、つわりが起こるわけです。ですから吐いたり食べ物の好みが変わったりするのも、このようなときです。なかなか合わないところにむりやり魂を押し込むので、それで何か変調をきたすわけです。 また、女性の霊意識が低いところに、もう少し高い意識を押し込むときにも、よくつわりが起きます。それで、霊道を開くとつわりがゼロになるわけです。まったくバイブレーションのズレが起きないのです。 このようにおもしろい結果をずっと分析しています。追跡調査をずっとしてみたいと思っています。本人の予言がどこまで当たるか、何十パーセント的中するのかを調べてみれば、たいへんおもしろいと思います。あと、三〇年くらいすればそれを発表するかもしれませんので、みなさんに長生きをしていただきたいと思います。 ③目の色と超能力 ゴンダアナでは、八つの民族が入り乱れて覇を競っていたので、外敵から身を守る必要があり、第三の眼がひじょうに使われていました。この眼には、黄色、緑、紫、黒、灰色、茶色という色があり、民族によって超能力の発達の度合いが違っていたようです。この六つの色の眼のどれにも共通しているところ、いわゆる念力的な部分は、強弱はありますが、だいたいみな持っていました。つまり念による物理的な力で、相手を金縛りにして、身体を動かせなくすることくらいのことはできました。このように出口王仁三郎のような世界では、霊力の強いほうが相手を縛れるわけです。 黄色い眼の特徴を言うとすれば、読心力、マインドリーディングの力がひじょうに強かったようです。緑の眼を持っていた人は、音感あるいは音楽的な超能力にひじょうにすぐれていました。紫系統は臭覚的感覚が特に強く、黒い眼に特徴的なのは霊視能力で、いわゆるオーラが見えたり、霊体が見えたりする能力が強かったのです。さらに灰色は霊聴能力が中心で、茶色は予知能力でした。 このように中心的な念動力といいますか、それぞれ特徴のある最高パワーをもっていたわけなのですが、これ以外にも六大神通力に値するような部門をいろいろもっていて、技を競い合っていました。 各民族の秘伝の部分があって、そこの長がおりまして、その部族の霊能力や超能力を高めるべく磨き合い、訓練に訓練を積むわけです。たとえば、霊視能力であれば、その能力を開発して、はるか地平線のかなたにいる相手を見えるようになるために訓練するわけです。もちろんそれは第三の眼でみているわけであって、しばらく見つめていると、拡大図のように近づいきてその様子がわかるわけです。 こういう訓練をやっていますと、忍者のように千里先の針が落ちた音がわかるというように、地に耳を伏せて遠くの音を聞いただけで、だいたい敵が何人ぐらいいて、どのような装備をしてきている、ということがわかるようになるのです。 ④文明の盛衰と霊界への影響 このような時代も、それなりにおもしろかったと思いますが、残念なことは「心」がなかったということです。そしてこの大陸消失後、これが仙人界、天狗界、魔術界等の源流になっていったということです。 霊天上界にはいろいろな世界ができているわけですが、このように一つの特別な世界ができる原因は、地上でやはり大量にそうした方面で生きた人が多くいて、それがまとまって天上界にあがったというところにあるようです。そして、その一つの世界が天上界にできると、そこでまた拡張力を発揮するわけです。そこでも、いろいろな新参者を連れてきて訓練させたりして、仙人の世界や天狗の仲間を増やしていきます。そして人数が増えてくれば、また地上に送りこんで地上の仲間を増強したりしてがんばっているのです。 あまりにも異常に大きな数の、同じような傾向性を持った魂が教育によってつくりだされた場合には霊界にもそのような影響が出てきます。 そして、やはりそういう集団がだんだんとどこかに場所を借りて住みはじめ、拡張しはじめます。そのようにしていろいろと変わっていくのです。霊界でも指導霊団の力、実績というものは変わっていきます。ですからイエス様が地上に出たときなどは白色系団がそのあと活動して天上界で邑(むら)をたくさんつくりました。そのあとに、また地上に出てキリスト教を広めたりして、よく教育していきますと、その教育を受けた人が、また広げていきます。他の霊系団も、このような感じで活動しています。 みなさん方のなかにもだいぶこのゴンダアナの時代に生きていた人がいらっしゃると思います。 ⑤ゴンダアナ文明の滅亡 「七十三万五千年前の秋の、ある夕暮に大地からゴーというすさまじい地鳴りがしたかと思うと、ゴンダアナ文明の中心都市のひとつであるエカーナという大都市の中心に、南北に亀裂が入り、みるみるうちに大地に断層ができてきました。最初の断層は、南北百キロぐらいでしたが、やがて、海水が入りはじめて分裂の兆候を示してきたのです。第二段目の変化は、それから三日目におこりました。マグェチュード10ぐらいの、強烈な直下型地震です。約三十万人のエカーナの住人は、この日、死にたえました。」と『太陽の法』に説明されています。このエカーナがどのあたりにあたるかというと、現在でいえば、やはり大西洋域になります。エクアドルの北東の方向で、ヨーロッパとの中間点のところにあったようです。 これは、文明の滅び方を見ればよくある話であるということがわかると思います。それから、ゴンダアナの東南部にはエルミナという都市があって、そこに住んでいたエルミナ族は予知能力がひじょうに発達していたので、一部の人はあらかじめ逃げることに成功しました。そして南方にあった無人の大陸に逃れていきました。 このエルミナは、どのあたりに位置していたかといいますと、これが現在で言うとブラジルのサンパウロのもう少し北のほうで、やはり海域に相当しています。そして、この予知ができる部族が海路南に、逃げたわけです。 この南に無人の大きな大陸があり、この大陸が実は現在の南極大陸と八割くらい重なっている大陸で、いまの南極は寒帯にありますが、当時は地軸がずれていて、比較的温暖な大陸でありました。小麦によく似た穀物がひじょうによくとれました。そしてここにミュートラム文明という三〇万年前から一五万三千年ぐらい前ころまで栄えた文明が出現しました。 5.ミュートラム文明と食文化 ここで特に発達した文明は、食生活の文明です。このあたりにきますと思いあたる人がそうとういらっしゃると思います。食物をどのように組み合わせて食べることが人間性にとって役立つかという、食生活と人間の精神生活との関連性が、徹底的に追究されていました。どういう植物を食べると人間の気質が穏やかになるか、あるいは、どういう精肉を食べると筋肉に瞬発力がつくか、乳製品を一日に何回、どのくらい食べれば長寿が得られるか、脳細胞の活性化に役立つかということが熱心に研究されていたわけです。 たとえば、当時もビーールに似た泡立ってアルコール分のある飲み物があり、それを飲むと気質がひじょうに穏やかになるということも研究されていました。アルコールにも種類によっていろいろな効用があって、ビールに近いようなものは、人間の性格を穏やかにさせていくけれども、その当時にあったブランデーに近いような飲み物は、人間を多少狂わせたりするような力があるとか、あるいは当時の、ワインに近いような飲み物は、高級な精神生活に向いているなど、このようなことをずいぶん研究していたようです。 食物でも乳製品が当時、流行(はや)っていて、農業国であったのですが、酪農に近いものが行なわれていて乳製品をいろいろと研究していました。現在ではミルクとして飲むか、チーズあるいはバターというように、乳製品はこの程度の種類しかないと思いますが、この時代にはもっと研究されていて、何百種類もの乳製品がありました。私たちは、まだそれほど研究心がなくて、チーズかバターくらいでよいと思っていますが、当時はひじょうに研究がなされていたわけです。 この乳製品についても、やはりどういうミルクでつくるかということが、ずいふん課題とされていました。この当時の牛は現在よりも少し小さめでしたが、育て方、飼料の与え方等でどういうミルクを出すか、ということが熱心に追究されていました。それと牛以外のほかの動物のミルクも、ずいぶん消費されていました。 ①パノアのミルク 狼に似た動物のミルクも一生懸命採取していました。その動物は狂暴で家畜にならない種類のものであったのですが、そのミルクは、ひじょうにおいしかったのです。山に棲(す)んでいて、歯がすごい動物でした。ですから、これから乳を搾るということはなかなかの大仕事で、これをどう捕まえて乳を搾り、またそれをもとの野性の状態にどうやって戻すかということが問題でした。山に、ある程度の囲いをつくって、勇士が山に登っていき、バケツを持って搾りにいくわけです。 それはとても大変な作業で、そのための訓練も施されていまして、その狼牛からミルクを搾るために筋力トレーニングも行なわれていて、格闘技の前身にあたるようなものが、そうとう開発されていました。その動物を押え込んでいかに噛まれずに乳を搾って帰れるかという方法が工夫されていました。これは、投げ縄をつかうカウボーイのやり方に近い方法でした。武器としては縄に近いもので、長さが一メートルぐらいの仕込み棒で、中が空洞になっていて棒の先から輪がついた縄が飛び出すような仕掛けになっていたものです。飛び出す縄全体の長さは、だいたい四メートルですから、それぐらいまでは近づかなくてはならないのです。ですから、柵をつくって、音楽隊のように太鼓をたたいたりして、追い込みをするのです。その柵のなかに狼牛を追い込んで、仕込み棒を使い投縄を飛ばして狼牛の首にかけます。 この投縄は、仕込み棒についているボタンを押すことにより狼牛の首を締めるようになっています。首が締まって「フーフー」いっている狼牛にまたがって、もうひとつの伸縮性のあるバンドのような武器をだして、それをロにかけます。ゴムのようになっていますから、「キューッ」とロを締めてしまいます。そしてそのときにもう一人が出てきてこの狼牛からミルクを搾るのです。 この狼牛のミルクはひじょうに高価で、飲めば長生きするといわれていたのです。当時、研究はいろいろありましたが、とくに、長生きの秘訣、不老長寿の薬がそうとう研究されていて、不老長寿の薬が、三種類あると言われていたのです。その一つが蜂蜜のたぐいです。現在の蜂蜜のたぐいのなかに不老長寿のエキスがあるといわれていました。 もうひとつは、この狼牛の乳に長生きする素(もと)がはいっているという研究報告がありました。なぜそう思われたのかといいますと、この狼牛はひじょうに精力的な動物であって、そのうえ動物のなかでも長寿であり、また繁殖力がたいへん強く、ものすごく生命力が旺盛であったので、それにあやかろうという考え方があったわけなのです。この狼牛の名前は、「パノア」と呼ばれておりました。 このパノアのミルクは、このような危険を冒して手に入れるものですから、現在の経済原理からいっても、これがどれだけ高価になるかということがわかります。このミルクは現在でいえば、ワニ革くらいの値打ちがある貴重品でした。ですから、だいたい王侯貴族の経済力がないと、飲めないものでした。 それゆえ、一般の人は、経済力をつけて早くパノアのミルクが飲めるようになりたいとか、ある島でとれるあの蜂蜜が飲めるようになりたい、そしてもうひとつの不老長寿の薬としてクロレラの先祖にあたるものを手にいれたい、という思いが強くありました。このように長寿の研究が進んでいたので、その結果、この時代にはけっこう長寿の者が多かったようです。 ②食物と人間の精神 魚の研究もずいぶんされていました。魚の料理方法なども、現在よりかなり進んでおりましたし、それぞれの魚の味に対する好みも厳しかったのです。どういう香辛料とあわせるといちばん美味しいかということが、徹底的に探究されていました。今の西洋人はそれほどではありませんが、ギリシャなどでは現在でも魚料理の研究が盛んなようです。 この時代に高級魚とされていた魚は、鯛ではなくて、イトヨリの親戚のような魚でした。それはなぜかといいますと、いろいろな分析の結果、つまりエネルギー量換算や、健康度、成分の分析、美味しさの分析というようなものからいくと総合的に一番であったためです。鯨に近いものもいましたが、大きな生物であったので、海の神というように呼ばれ恐れられていました。鯨を見た場合には、漁師は逃げていました。鯨は食用ではありませんでしたが、鮫は食べていました。フカヒレスープに近いものの研究は進んでいて調理法もいろいろありました。 そして、食生活部門ごとに長寿博士あるいは耐久力博士や、記憶力増強博士など、いろいろな博士部門がありました。ようするに、食品と精神のかかわりを徹底的に追究していたわけです。考えてみますと、あるいはそういうものかなという気もいたします。 もしみなさんが、子供のころから、人間の基礎は食品であって、これがないと人間は死んでしまうし、食べ物によって人間の発揮する能力、あるいは精神状態が左右されるのだから、食物と精神のかかわりを研究していくことが最先端の学問であり、一番の叡智者、知恵ある者が行なう仕事である、と言われていたならば、ある程度納得されるのではないでしょうか。確かに食品は万人に必要なものであるし、それでどのようなものを食べればどうなるのか、気質が穏やかになるのか、乱暴になるのか、崇高な精神になるのか、ということはだいじな問題だということです。 ですから、その当時一生懸命研究した人が、今世生まれ変わってきますと、だいたい食品の研究家や、美容食研究家などというようになるわけです。食物と運命の研究家のようになって出てくるのは、だいたいこのころにやってた博士たちがやはり出ているのです。このように、ミュートラム文明は食生活と人間の気質についての膨大な研究を残しました。 このころの研究と比べますと、やはり現代食生活の研究は、数段遅れています。また料理法などもあまり進歩しているとは言えません。ここ何千年かでみれぱ進歩しておりますが、人類の長い歴史、何億年の歴史からみれぱ料理法は決して進歩はしていません。いまでは信じられないような料理が過去にはたくさんありました。そのときに活躍した人が今、生まれていて、時どきパーニャ・パラミタを出して、過去世の料理法を思い出したりしてつくるのです。 ③エミューラの改革 ただこのときに、ひとつの唯物思想のはしりが出てきました。食生活に関心が移ったために、本来の使命である魂の研究、修行がおろそかにされてきたということです。このミュートラムの最盛期は一六万年前くらいになりますが、モーゼとのちに言われた人、当時の名前はエミューラという名前でありましたが、このエミューラ大師が地上に出たときに、「食生活から心の生活へ」というスローガンのもとに精神革命を起こそうとしました。 しかし、これは失敗したようです。それほど深く食生活を研究し食を愛していった人たち、いわばグルメの大群のような人たちに真向から「食物じゃないです。人間は心です。」と言ったところで通用するかどうかです。実際には異端視され、大変な苦労をし、迫害を受けました。ただ功績としては、食生活だけではない何か別のものが、人間性に影響があるのだというイメージだけは植えつけることはできました。この図式は現代の唯物思想とたたかう宗教のはしりに近いともいえるでしょう。
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目次 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか 11.良き知らせの第三 ― 希望 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい (一九八六年十二月二十一日の霊示) 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 内村鑑三です。今日は第八回、いよいよ最終回となりました。未来への福音ということについてお話したいと思います。地上の皆さんは、福音という言葉を聞くと、聖書、あるいは、キリスト教というイメージを持っているのではないでしょうか。 しかし、福音という言葉の本当の意味は何でしょう。福音とは、幸福の調べという意味です。英語ではゴスペルとも言いますが、よりわかりやすく言えば、グッド・ニュースということです。つまり、福音とは、良き知らせという意味なのです。 では、良い知らせとは、一体何でしょう。何をもって良い知らせというのでしょうか。地上に生きているあなたたちにとっては、たとえばお金が入ってくることが良い知らせかもしれません。出世することが良い知らせである人もいるでしょう。子供を生むことが良い知らせであるとか、あるいは、いい学校の入学試験に受かることが良い知らせだとかね。それぞれの人が、いろんな良い知らせを持っていることと思います。 しかし、本当によい知らせとは何かと言うと、それは、神の国からの通信なのです。地上にいるあなた方のほとんどは、霊の存在も不確かであり、また、霊というものを認めるにしても、聖霊とか、天使とかいうものが本当にいるのだろうかと不思議な気持ちだと思います。本当に天使からの言葉があるのだろうかという疑いの気持ちがあってもおかしくないでしょう。 しかし、そういう不確かな気持ちを振り払ってもらうためにも、私たちは、こういう形で、天上界から霊界通信を送っているのです。皆さん、これが、福音なのです。私たちは、正真正銘の天使なのです。そして、その天使が、あなた方に、今、書物という形を通して述べ伝えているのです。生きているときに私たちの言葉を聞けるということ。これが最大の良き知らせでなくて、一体何でありましょうか。 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 良き知らせのなかには、三つの内容が含まれております。第一にそれは、神の国の訪れを告げる鐘の音です。イエスは、こう言いました。 「汝ら悔い改めよ。神の国は近づけり。神の国は汝らの手近かにあり。今ここに出現せり。神の国は心のなかにあり。汝らが心を入れ替えたときに、神の国は現われる。我は、神の国の出現を諸君に伝えんがために、現われたる聖者なり」 良き知らせ、すなわち、福音とは、まず第一に、神の国の到来を告げる調べなのです。鐘の音なのです。言葉なのです。 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 第二に、良き知らせとは、神理の言葉です。人間は、地上で数十年の人生を生きていく途上において、本当に真実の生き方が何であるかということに関して盲目だと言えます。盲目のままに生きているのです。何が価値あることで、何が価値のないことかということがわからないままに、六十年、七十年の人生を過ごしてゆくのです。 ですから、この世を去って、私たちの住むあの世に来てはじめて後悔をする人の数は、数えきれません。そして、彼らのなかの多くの人は思うのです。「なぜもっと早くこの神理に気がつかなかったのだろうか。このことを知っていれば、私はこんなに迷わずにすんだのに」と。 また、宗教にしても同じことが言えます。死んであの世に還ってはじめて、気がつくのです。 「ああ、地上にこんなに真実の教えがあるのならば、なぜ神様はもっと早く、それを教えてくれなかったのか。私が接した宗教は、みんなまちがった教え、邪宗ばかりだった。それにこりて、宗教は、もう金輪際(こんりんざい)ごめんだ、二度と近づきたくないと思ってしまった。こんなまちがった教えが神の教えであるのならば、神などいないほうがましだと思っていた」 神は存在しないのではないかと、多くの人たちは思っていたのです。ところが、あの世に還って、真実の教えが地上にもあったことに気づく。だから、それを学はなかったことに関して、非常に後悔をするのです。ですから、死ぬ前に、生きているうちに、肉体を持った身のままに、神理の言葉に接するということが良き知らせであると言えるのです。 神理の言葉に接する。人生において、これほど意義のあることはないと思います。これほど素晴らしいことはありません。しかし、この良き知らせを受け取ることができる人とできない人との間には、非常に大きな差があり、谷間があるのです。 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 人生の途上において、神理の言葉ではなく、まちがって、偽りの言葉を真に受ける人もおります。すなわち、これは良き知らせに対する悪しき知らせです。まちがったサタンたちの教えを奉じている宗教に属し、盲信、狂信のままにそれらを鵜呑(うの)みにして、まちがったままに人生を送った人たち、こういうあわれな人たちもいます。 こういう人たちは、良い知らせに接しなかったというそれだけの人よりも、もっともっと苦しい人生があの世で待ちかまえているのです。つまり、彼らは、マイナスからの出発だからです。神のほうへ向かう道を登り道だとするならば、彼らは、まちがって道を下っているのです。谷間まで下りてしまっている。ですから、ここからまた頂上まで登らなくてはならないということは、大変な苦労がいります。 しかし、たいていの人は、山道をしっかりと登っているのです。正しき教えに接した人は、一歩一歩着実に山道を登りながら、その頂上をめざしている。ただ、その途中で、近道があると思ってまちがった道に迷い込んでしまって、麓(ふもと)まで下りて来た人もいるのです。谷間のなかに下りて行き、沢のなかで迷ってしまう。彼らは、近道だと思って入った道が、大変な迷い道だったことに、あの世で気がつきます。しかし、その迷い道から抜け出して、また頂上をめざすのはなかなか至難の業です。 あなた方は、地獄という存在について、さまざまな疑問を持っているのではないでしょうか。神がなぜ地獄をつくったのか。なぜ地獄霊がいるのか。こういうことについて、疑問を持つと思います。 それは、すなわち、こういうことなのです。説明しましょう。神というのは、山の頂(いただき)なのです。神は、山の頂にいらっしゃるのです。そして、山を登って来ようとする登山者たちに対して、「頂上をめざせ。頂上こそ、あなたたちの来るところである。我が懐(ふところ)へ至れ」と、こう言っているのです。だから、何万、何十万、あるいは、何千万、何億、何十億の人たちが、頂上をめざして山を登っているのです。 ところが、なかには、けわしい山道を歩くのに疲れ果てて、もっといい道があるのではないか、もっと近道があるのではないかと、かってに地図を出していろんなことを調べはじめる人が出て来る。この道を行けば、きっと近道にちがいないと、脇道に入って行く人たちが出て来る。その結果、彼らは、山のなかに迷い込んで、頂上に登る道がわからなくなってしまうのです。 いったんは、道が下りはじめたことに気づいても、いや、これはひとまず下っているだけで、どこかできっと平坦な道に出て、頂上に通ずるにちがいない、と。そう思いながらも、いつのまにか下り道を下りはじめて行くわけですが、そうするうちに、もと来た道もわからなくなってしまう。帰るに帰れなくなり、孤立して、孤独になり、迷っていく。これが地獄なのです。 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい ですから、神のつくられた世界は、山だと思えばいいのです。すなわち、神理の道とは、その山を登るための山道なのです。 それでも、途中で脇道に入って、獣道(けものみち)とかね、そういうところに入ってしまって、迷う人が出て来る。そういうところに迷うというのは、迷わすのがおかしいのではないかという人がいるかもしれません。しかし、道を踏みはすしたのはだれですか。それは、その人たち自身ではないですか。頂上をめざすのに、どの方向を選ぶ。それは、登山者の自由です。正規のルートをはずれて、かってにちがう道に入って行ったのは、自分自身に他なりません。そして、山に迷ってしまっているのです。 また、神様というのは、山をすべて禿山(はげやま)にして、山道を頂上まで登れるように舗装して、きっちりしておくべきだという人もいるかもしれません。ただ、山登りの醍醐味(だいごみ)というのは、大自然のなかを歩んでいくからこそ素晴らしいのです。頂上までのまちがいない道ということで、アスファルトで舗装してしまったからといって、それでいいわけ てはないのです。 また、今の時代にはケーブルカーというものがあって、それに乗れば、もちろん、頂上まで早く着けるでしょう。しかし、ケーブルカーに乗ってしまったのでは、山登りの本当の素晴らしさがわかるでしょうか。大自然の本当の素晴らしさはわからないはずです。第一、そういうことでは、あなた方の足腰は強くなりません。 山道を歩く。歩きながら足腰を鍛える。汗を流して、峠、峠でひと息つく。弁当を広げ、お茶を飲む。そして、皆んなと語りあいながら、また登って行く。こうであってこそ、素晴らしい人生だと言えるのです。それを、ケーブルカーに乗って、横着(おうちゃく)にも山を登って行こうなどとすると、頂上まで登ったと思っても、そこで扉が開かないでしょう。なぜならば、まだ、何の修行もしていないからです。 「あなたは、もう一回麓まで行って、他の人たちと一緒に登って来なさい。他の人は一生懸命山登りをしようとしているのに、そなたひとりが楽をして、ケーブルカーに乗って来ようとは何ごとであるか。もう一回、麓まで降りて、そこから登って来なさい」と神に言われてしまうでしょう。 そういうことであって、悟りには、決して近道はないのです。これが、良き知らせの第二番目の意味です。良き知らせの一番目の意味は、先ほども言いましたように、神の国の到来を告げる鐘の音です。そして、第二番目として、神理の言葉、真実の言葉、これが良き知らせです。では、良き知らせの三番目とは何でしょう。三番目の意味は、希望です。 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 人間の数十年の人生において、苦しみのない人生というのはありません。どんな人間にも苦しみがあり、悩みがあるのです。あなた方は、内村鑑三には、苦しみ、悩みがなかったと思いますか。 私の過去世のエレミヤには、悩み、苦しみがなかったでしょうか。エレミヤは、神理が廃(すた)れると国が滅びる、バビロンの勢力が攻めて来て、国が滅びるとの警告をつねづね発していた神の預言者です。エレミヤは、何度も捕まって、迫害を受け、瀕死の重傷をおったこともあります。命からがらでした。その命をかけて、神理の伝道をしたのです。その苦しみ、悲しみたるや、余人の理解できるところではありませんでした。 では、内村鑑三の人生はどうだったのでしょうか。私が、刻苦勉励(こっくべんれい)、努力の人生を生きたことは、もちろん、確かです。一九〇〇年代後半のあなた方の目から見れば、内村鑑三は、歴史に名前が残っていないじゃないかと思うかもしれません。あるいは、教科書にも名前が載っているとはうらやましいとも思うかもしれない。しかし、内村鑑三の人生は、それほどなまやさしいものではなかったのです。 神理を守らんとするほど、世の風あたりは強くなります。あなた方は、世の中が平和で、人びとはやさしく、常に理解があると思っているかもしれませんが、平和なときには草を食んでいたような羊たちが、困難なときが来ると狼にならないとはかぎらないのです。いや、実際、過去にいくたびも、羊が狼に変わってきた。皆んな、自分が満ち足りて生きているときには、それぞれを尊重して生きているように見えても、いったん、危機のときになると、彼らはまちがった方向へと進んでいくのです。 あるいは、羊たちがまちがって谷底へ落ちて行くような方向へと群れをなして行こうとする。そこで、羊飼があわてて、「そちらへ行ってはいけない。こちらへ来なさい」と大声をあげる。ところが、羊飼が一生懸命叫んでも、羊たちは、羊飼を狼だと誤解して、メェーメェーと罵倒しながら、彼に足で砂を掛けてね、ドドッと谷底へと転がり落ちていく。そういう時代なのです。 私のときも同じでした。羊たちが谷底へ向かって進んで行くから、私はその方向へ行ってはダメだと言うのですが、彼らはみすみす谷底へと突き進んで行くのもいる。私は、声を大にして叫びました。「そちらへ行けば狼がいる。狼のほうへ行ってはならぬ。あなた方は、命を失うであろう」と。しかし、羊たちは私の言葉に耳をかさない。「狼はやさしいお兄さんです。きっと私たちを食べものの多いところへ導いてくれるにちがいありません。私たちを敵から守ってくれるはずです。なぜならば、狼は強いからです」とこういうことを言う。こうして、私の言葉を信じずに、狼のいる方向へと逃げていった羊たちがたくさんおりました。愚かといえば愚かです。 しかし、この羊飼と羊たちのたとえ話をよくあてはめてほしいのです。羊の数は多い。どの時代においても、羊たちはたくさんおります。現代にも、羊はたくさんいる。ただし、羊飼は多くはないのです。羊飼はひとりで何百頭もの羊を飼っているからです。ですから、羊が散り散りばらばらに別れたり、羊がかってな方向に向かって行くと、羊飼は大変な努力、労力を要することになってしまう。こういうことなのです。 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 私が声を大にして叫んだのも、私の羊が散らされるのを恐れたからなのです。しかし、羊たちは、私の声を理解しようとはしませんでした。その羊たちのなかには、もちろん、無神論者の羊もいたし、戦争論者の羊もいた。あるいは、キリスト教会という仮面をかぶった羊もおり、クリスチャンという名の羊もたくさんおりました。 そのなかで、私をもっとも迫害したのはだれだったのでしょうか。それは他ならぬクリスチャンたちでした。「内村の言うことはおかしい。あれは国賊だ」と。しかし、彼らは真実のキリストの教えに触れていたのでしょうか。真実のイエスの言葉に接していたのでしょうか。 かつて、私が不敬事件を起こし、教育勅語に礼をしなかったということでもって、国中が私を国賊扱いをしたことがありました。そのときに、こともあろうに、クリスチャンまでもが、私を同じように扱ったのです。 彼らの主は、イエス・キリストだけのはずです。彼らの主は、生きている人間天皇ではないはずです。それにもかかわらず、キリスト教会の多くの者が、クリスチャンたちの多くが、内村鑑三をなじったのです。「彼は国賊なり」「我ら教会は関知せぬなり」「彼は国賊でかってなことをやって、不埒(ふらち)千万な奴である。輩である」と。こういうことを言ったのです。 「じゃあ、あなたたちの主は、一体だれか。明治天皇なのか、それともイエス・キリストなのか、答えられるか」 「いや、明治天皇は明治天皇で、いわば、カイザルであろう。カイザルのものはカイザルに返せ、神のものは神に。だから、私たちの信仰は、イエス・キリストにあるけれども、現世的には明治天皇が現人神(あらひとがみ)みたいになっているのだから、それはそれで尊重せねばならぬ」 一見、合理的に見えます。イエスも税金は収めなさいと言っています。ですから、同じように聞えるわけです。しかし、実際には、ちがうのです。 天皇制って何ですか。天皇制というのは、一種の神です。伝統的な宗教であり、神なのです。しかし、私たちは、唯一の主イエス・キリストを主として仰(あお)いだ以上、二主に見(まみ)えることはできないのです。下僕の主人はひとりです。先生はひとりでいいのです。先生が何人もいたら困ります。 もちろん、だからといって、他の先生がまちがっているわけではありません。他の先生には、その先生のよさがあり、他の先生にはその弟子たちがいるでしょう。しかし、我が主はひとりです。イエスが我が師であるのならば、主を二人持つことはできません。また、妻にしても同じです。二夫に見(まみ)えずと言います。夫はひとりでいいのです。何人もの夫に仕える必要はないのです。 同じことです。ですから、あなた方の師はひとりでいいのです。ひとりの師に一生懸命、真剣にその身そのままを投げ入れていったならば、なかなか他のことなどにまで気が廻らないはずです。 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 明治期において、本当にキリスト教というものを布教し、人びとの間に広めようとするならば、安易にあちらの神様、こちらの神様もと奉っていいことではなかったわけです。これは、あなた方が行なおうとしている万教帰一の教え、あるいは、すべては神の教えから来ているということを、もちろん否定するものではありません。あなた方のやろうとしていることは、そういう時期が来ているから、だからこそ、そういうことは大事なのです。 ただ、私が言っているのは、その前の段階としてのことです。すなわち、正しいキリスト教を日本に根づかす段階においては、まず主キリストに対する信仰というものを確立することが、何にもまして大切なことだったということです。それなくして、現人神みたいな生けるキリストみたいのを崇めてしまうのは、これはまちがっていた。その人そのものを尊敬するのはけっこうだったのですが、その人そのものではなく、その人が書いたと称される教育勅語のようなものに頭を下げなければ国賊扱いにされるような世の中だったわけです。そういうのは、いくら何でも、どこかおかしかった。それも、そのはずです。私たちが頭を垂れるのは、イエスの教えだけなのです。聖書だけなのです。私はそう思います。 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 私は、日清、日露の戦争にもずいぶん反対してきました。しかし、国中がそれに酔いしれていたのです。というのは、日露戦争、それから第一次大戦、こうしたものに参加して、国中が戦勝ムードに酔っていた。その結果、どうだったのでしょうか。日本の傲(おご)りが第二次大戦に突入する契機となり、その結果、かつて戦勝で殺した人よりはるかに多くの人たちが、日本の国のために虐殺されたはずです。 第二次大戦のなかでどれだけ優秀な方が亡くなったと思いますか。あのときに亡くならなかった人材がいたならば、日本の繁栄はもっと素晴らしかったかもしれない。優秀な方から順番に死んでいってしまったのです。当時二十代、三十代という青年が亡くなっている。戦争中に二十代だった人は、現在四十年たって、ちょうど六十代。社会のなかで、今や最高部を占めている方々です。ですから、彼らが生きていれば、日本の現在の経営者、政治家、官僚たちのなかに、そうした超一流の人材がいたはずなのです。ところが、彼らのほとんどは、戦争で死んでしまった。この惜しむべき損失というのは、何ものにも変えがたいものです。 現在、会社の社長だとか、政治家だとか言っていばっているけれども、一流の人材が皆死に果てたあとでいばっているのです。本来ならば二流の人材に甘んずべきところが、一流の人材が皆死んでしまったために、現在日本を牛耳(ぎゅうじ)っているのです。その結果、日本は衆愚政治となり、日本の経営のなかに素晴らしい精神が失われてしまったのではないでしょうか。事業経営者にしても、産業界の人びとにしても、金儲けばかりに走っている。世の中の精神的支柱になれる人は、一体どれだけいるのだろうか。その点をよく考える必要があります。 いつの時代にも、精神的な支柱となれるような人というのは、一定の数はいるのです。しかしそういう人たちのほとんどが、第二次大戦で亡くなってしまった。だから、現在六十代、七十代で、日本のいろいろな産業界、あるいは、政界、学界で牛耳っている人たちは、一流の人材が死んだ後の人たちなのです。大きな顔をしているけれども、現在の日本が停滞している原因は、あなた方のなかに、国の精神的支柱になるための心思(しんし)の力、すなわち、心と思いの力がないからです。その点をよくよく反省しなくてはなりません。 そして、日露戦争、第一次大戦で戦勝国のムードを味わったという思いあがりがどれだけ大きな代償を生んだかということを、よく考えてごらんなさい。その損失は、非常に変えがたいものだと言えます。 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか では、私か警告した戦争反対論というのは、単なる理想論であったのでしょうか。当時、私は言いました。戦争してはならん。イエスの教えのもとに愛さねばならん。敵を愛せよとイエスは言った。右の頬を打たれれば左の頬を出せと言った。このイエスの教えから見て、こんなことは許されない。戦争などということはあり得ない。敵と戦うなどということは許されんことだ、と。こういうことを私は言いました。 しかし、世間は、私を理想論者だと嘲笑(あざわら)いました。そして、外国に攻めて行って朝鮮を奪い取ったり、台湾を奪い取ったり、あるいは、満洲を奪い取ったりして、勢力拡大したと、皆んなが喜んでいたのです。 ところが一方では、ソ連に千島列島を奪い取られたと言って、北方領土返還を一生懸命やっている。何の産物を生まないような島でさえ、取られて悔しいのです。それなのに、彼らの苦しみが、わかっているのだろうか。台湾を取られ、韓国を取られ、満洲の大きなところを取られた彼らの悔しさが、わかっているのだろうか。それは、正(まさ)しく侵略軍が来て、住んでいるようなものなのです。沖縄の返還もあったけれども、彼らの気持ちからすれば、九州を占領されたり、北海道を占領されたり、四国を占領されたのと同じ気持ちだと言えます。韓国人や中国人の彼らの気持ちに立てば同じことです。 たとえば、現在、あなた方は、ソ連に四国を占領され、アメリカに九州を占領されていい気持ちがしますか。アメリカの人たちが、九州を占領して、そのお陰で日本の国産の食べものが安く手に入ると喜んでいるのを見て、それでよしと思いますか。その点をよく考えてごらんなさい。つまりは、人の立場に立ってわからない人間ばかりがいたということです。そして、それが世論でもあり、論調でもあったということです。植民地を増やすということは、国の栄光であり、繁栄であると思っていたのです。 相手の立場に立つことをわからない人間、愚かな人間は、やがて狼に食べられるようになるのです。そして、第二次大戦という徹底的な敗北が来ました。このように、世論というものは、必ずしも正しいものではないということです。 従って、あなた方が生きていくなかにおいても、世論とあわないことがけっこうあるでしょう。しかし、それに迎合してはいけないのです。真実というものは、いつも孤立するように見えることがあるけれども、時代を越えて、やがて必ず認められるのです。そのことがあるということです。ですから、そういう苦しい面もあるけれども、それをしっかりと乗り越えていかなくてはならないということです。 11.良き知らせの第三 ― 希望 今日は、「未来への福音」という題での話ですから、福音の話をしてきたわけですが、未来の福音ということで残りの時間、お話をしていきたいと思います。まあ、八日間しゃべってきて、地上の皆さんには、ずいぶん厳しいことも申し上げました。しかし、未来に関してのやはり素晴らしい福音、良き知らせや、希望の原理がなかったとしたら、そのなかで、やはり元気を出して生きていくことができないでしょう。福音とは、希望の原理でもありますから、それを聞いて人びとが奮い立ち、希望を持つようでなければ意味がありません。 そういうことで、三番目の希望の原理ということを中心にして、今後、これから未来への福音という話に入っていきたいと思います。先日も話をしましたけれども、ノストラダムスか何かの例を出して、これからエホバが大地を打つときが来るという話をしました。そして、災難のなかで、人びとが逃げ惑うときが来るということを私は警告しました。しかし、それだけであってはいけないでしょう。ですから、ここで、私は、希望の原理を述べ伝えましょう。 皆さん、これからこの世的には、どのような不幸なできごとが起きたとしても、それを非常に冷静に受け止めてほしいのです。たとえば、火山の爆発があろうとも、大地震があろうとも、津波が襲ってこようとも、あるいは、日照りや旱魃(かんばつ)が続こうとも、また、ある地域で核戦争が起きようとも、ただそれでもって、この世の終わりだと言って、極楽往生だけを願うようなあなた方であってはなりません。 あなた方は、この地上に生きているなかにおいて、やはり希望の光というものを見い出していかなくてはならないと思うのです。さて、その希望の光、希望の原理、未来への福音は、一体どこにあるのでしょうか。私は、この未来への福音のよりどころを、未来への希望の原理のよりどころを、また三点に求めたいと思います。 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 未来への福音の根拠、よりどころの第一点は、今、歴史上かつてなかったような、偉大な人たちが地上に生まれているということをまず知りなさい、信じなさいということです。たとえば、インドには、何回、何十回と転生した方がおります。しかし、インドに釈迦が生まれたときに弟子として生きられた人たちは、本当に恵まれた、運のいい人たちだったはずです。そういう時代に生まれあわせようとしても、なかなかそういうことができるものではありません。 また、ユダヤの地に歴史上生まれた方はいくらでもいるでしょう。しかし、そのなかにおいて、イエスの声を聞くときに生きられた人びとの数は少ないのです。私がエレミヤとして生きていたときもそうでしたが、預言者の肉声を聞くという機会に接した人も数少ないはずです。その前には、ゼウスやアポロンの時代もあったでしょう。そうした時代に生きられた人も、数少なかった。 しかし、あなたたちは、今、神の栄光のある時代に、地上に生きているのです。ですから、自分たちが生きているということを知らなければなりません。そうしたおおいなるときに、偉大なるときに、自分たちが生まれあわせているということを信じなければいけないのです。これが、まず第一の希望の原理です。 過去に、どれだけ転生を繰り返してきたとしても、こうした機会に恵まれることは、めったにありません。しかし、今、モーゼのときよりも、ゼウスのときよりも、ブッダのときよりも、また、イエスのときよりも、大きな奇蹟が、おおいなる法が、説かれる時代が来ているのです。ですから、この時代に生まれあわせたこと自体が、ひとつの福音ではないでしょうか。そしてまた、ひとつの希望の原理ではないでしょうか。私はそう思います。 今、おおいなる人びとがたくさん出ています。数多くの光の天使たちが、今、地上に出ているのです。とくに日本にはそうです。数多くの如来や菩薩が肉体を持って、今、出ています。ですから、こういう素晴らしい時代に、現在、生きているということを、あなた方は、嬉しいと思わなければいけません。まず、これが希望の原理の第一です。 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 希望の原理の第二は、これからまた、愛の時代がはじまるということです。つまり、互いに愛し、愛される、愛の時代がはじまっていきます。愛というものが何よりも価値のある時代が、これからはじまるということなのです。 今の時代は、試験だとか、コネだとか、財産だとか、名誉だとか、あるいは、地位とか、うわべだけのいろいろなものに人びとが惑わされております。しかし、これからの時代は、愛の時代であり、愛の多さが人びとの偉さを測る時代となっていくのです。愛多き人が、愛深き人が尊敬され、人びとの上に立ち、人びとを導く時代となって来ます。これからは愛の時代です。そして、愛の時代に生まれあわせたということが、またひとつの希望の原理ではないでしょうか。 では、愛とはどういうものでしょう。愛とは、すなわち、相手のなかに自分を見い出し、自分のなかに相手を見い出していく道なのです。共に兄弟であるということを発見する道なのです。あなた方は、とくに親しい人だけが、お友だちであり、兄弟であるかのようにつきあっているのでしょうが、すべての人が手を携えて生きていける時代がもうすぐそこまで来ております。はじめて会った人とも、百年の知己(ちき)のように楽しく、安心して語りあえる時代が、もうすぐ来るということです。愛の時代です。共に神の子として、喜びあう時代が、もうすぐそこまで来ているということです。共に神理を学んでいるものとして、喜びあう時代が、もうすぐそこに来ているということです。そういう時代が確実に来ることが、すでに予定されているのです。 こうした時代が来るということ。愛の時代に生き、お互いに高めあう時代に生きられるということを、あなた方は喜ぶべきです。それは、ひとつの希望の原理です。ひとつの希望の光であり、地上の光なのです。そして、こうした愛の時代がこれから来るということを、私は、今、繰り返し述べ伝えているのです。 あなた方は、未来の方向で、一体何を努力すればいいのか。つまりは、より多くの人を愛する方向で努力してゆきなさいということです。より多くの人びとのなかに自分の分身を見い出し、自分のなかにより多くの人びとの心を見い出していく。心と心が共感しあい、共振しあう。共に悲しみ、共に苦しむ。共に喜びあい、共に励ましあうような、そして、共に労(いた)わりあい、共に親切にしあい、また、共に慰めあうような、そうした時代がもうすぐやって来ます。この愛の時代の到来ということを信じなさい。そのなかに、あなた方にとっての真の救いがあります。 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 希望の原理の第三は、これからは、新たな霊文明が訪れるということです。ここ百年の歩みを見ると、どうも唯物的に時代が流れ、霊を否定するような動きがありました。しかし、これからの時代は、霊を知ることこそが知識人の仕事であり、それが最先端になる仕事になってゆきます。 霊を知り、あの世の世界を知り、実在界を科学することこそが、学問の最先端であり、科学の最先端であり、また、人びとの心の勉強の最先端である時代がやって来ます。これから、霊性の時代が来ます。おおいなる霊性の時代が来るのです。かつて、イエスの時代や釈迦の時代にあったような、霊的に大きく目覚めた人びとが、真に霊的に目覚めた人びとの出る時代が来ます。 科学は、もちろん、ますます発達していくでしょう。しかし、それ以上に、霊的知識と、その霊的知識の伝幡ということが、日本を、世界を覆っていくでしょう。そして、霊性の復権、霊性の発展、霊的生き方の素晴らしさというものが、人びとの間にだんだん浸透していくでしょう。これからは、霊性の時代へ入っていきます。これを喜びなさい。これもまたひとつの福音なのです。 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい 未来への福音として、私は三つのことをあげました。偉大な人物が、今、出ているということ、偉大な光の指導霊たちが出ているということをまず知リなさい。これが第一でした。第二番目の福音は、愛の時代がこれから到来するということです。そして、三番目は、これからは霊性に目覚めた人びとが出て来る霊的時代、精神的時代へと入って行く、すなわち、心の時代へと入って行くということです。これが、より多くの人たちにとって、おおいなる福音となるでしょう。偉大な光の子が生まれ、愛の時代が到来し、霊性の時代に入って行く。精神の世界に入って行く、精神世界へと人びとが踏み分けて行くということです。そういう時代が来るということです。 その到来を告げることができた私は、かつてのエレミヤのように、あなた方に預言者として、あの世にありながら、この言葉を伝えることを本当に嬉しく思っております。地上の皆さん、どうか努力して下さい。そうした時代、新しい時代の到来を信じて、一歩一歩を進んでいきなさい。そのなかに、希望の光が見えてきます。そして、そこにあなた方の本当の幸福があるはすです。
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目次 1.金星人 2.オリオン星人 3.ベーター星人 4.M27とM36 5.大宇宙の救世主 (1988年1月14日の霊示) 1.金星人 さてみなさん、大サービスの章がやってまいりました。いよいよ宇宙人です。みなさんこれが知りたかったでしょう。宇宙人とは何か、ね。宇宙人もアダムスキーの宇宙人論とか、アメリカなんかいっぱいね、宇宙のこと言っとる人いっぱいいます。日本人でも宇宙人のこと言ってる人、結構いますね。ま、でも言ってる人がほとんどおかしい人ばっかりですから、何がなんだかわかんない。 また、宇宙人好きな人で霊が好きな人もおるし、宇宙人は好きだけど霊が嫌いだ、霊は好きだけど宇宙人は嫌いだ、まあこういうのもいるし、霊も宇宙人も嫌いだ、まあこういうふうにありますねえ。両方ありますが、まあ多少霊的なものに興味のある人は宇宙人にも興味があることが、一般には多いと言えましょう。ただ霊が好きな人でもまともな霊が好きな人は、宇宙人をいやがる傾向もあります。まあ、そういうこともありますねえ。 さて、金星人という話をしたいと思いますね。みなさんは、おそらく『太陽の法』を読まれておると思いますから、えー昔ね、金星に金星人がいたっていう話は読まれたと思いますね。そしてその姿は上半身が百合(ゆり)の花のようで、下半身が人間であった。そして光合成をして、そしてその光合成のエネルギーによって生きておったようである。こういうふうに書いておったと思いますね。 そんな半分植物、半分人間だったのかって、そんなたまったもんじゃないって言うけど、まあ考えてみりゃそういうこともあり得ますわね。ねえ、植物は植物で動かない、動物は動物で動き回っとるっていうけど、両方合体させたら面白いじゃないかって、そらあり得るわね。エネルギーを得て、で、自由に動ける。面白いですね。ま、そういうのもあり得ることですね。 これ以外にも金星人としていたものはありました。これは非常に少数ではありましたけども、この百合(ゆり)星人と言いますかね、百合の花のような金星人が長い間おったんだけども、彼らは非常に命が長くて死なない、事故がない限り死なないという状況であったんで、非常に長い間生きておったけども、停滞しておったと。まあこういうことで、金星でもまた新たな生物といいますかね、知性体を創る試みはあったんですね。それで今から十億年ぐらい前でしょうかね、そのあたりからそうした試みもありまして、いくつか創ったことがあります。そういう知性体をね、創ったことがあります。 ですからそういう植物兼動物のような、植物兼人間のような金星人、これは結構何百万体もいたんですが、これ以外に非常に身長の小さい金星人もいました。一メートルいくらぐらいのね、小さい金星人もいました。彼らは非常に頭でっかちでした。知性的な面、相当重視しましたが、肉体面が弱くてあまりうまくいかなかったんですね、この金星人は。 お釈迦様の前の生命体が金星で指導霊やっておって、あの人は頭のいい方ですから知性を非常に重視したんだけど、頭が大きすぎて重すぎて地上生活に適さなかった、まあこういう金星人がいっぱいできまして、これもそんなに栄えなかったですね。まだその末裔(まつえい)は多少おるかもしれませんがね、おるようですがね。多少おるようですが、まあほとんど少数でアイヌ人みたいなもんで、非常に少ないですね。そういう感じであろうかと思います。 これ以外に金星におるかということですが、いわゆる宇宙人の基地が金星にはありまして、地上に来て金星人だと名乗っておる者の中には、金星を基地としてね、活動しておる者がかなりおるんですね。金星人そのものじゃないんですが、もっとはるかな遠いところから来ておるけれども、金星を基地にして来ておる者がおって、そうした者は金星人と名乗ったりしています。その中には、地球人と非常によく似た種類の人たちもいます。本当に男女とも地球人そっくりに近い者もいます。ほんとにいます。だから一部分修正するだけで、整形手術したりね、隠すだけで地球人とおぼしき者もおります。 また、一部のそういう宇宙からの通信等の話を聞けば、そういう金星人みたいな人が人間の人類の中に入って住んでおると、まあ、こういうふうな報告もあるだろうと思うんですね。 実際はどうかって言うと、いることはいるんですね。ほんとにいることはいるんです。ごく少数です。数名ぐらいでしょうかね。数名ぐらい地球の五十億の中に混じり込んで肉体修行やっておるのがおります。実際に整形手術なんかして地上人そっくりに切り換えしてね、住んどるのがおります。だから自分の亭主だなんて思ってたら金星人だったりね。妻だなんて思ったら金星人だったりして、意外にこの本読んでうなずいてるあなたが金星人だったりしてね。まあそういうこともあるかもしれませんが、非常にそういう地球人とよく似た姿、形をした金星人もおるように思いますね。 その中には他の星から来た者かおるということと、あと金星に住み着いておる、ステーション作って住み着いておる者の中にね、第二世代、第三世代がおるんですね。たとえば日系二世とか、三世とかいうのがおるように、ステーション作ってからの二世、三世もおるんですね。こういう者は自称金星人を名乗っております。この金星の宇宙ステーション、あるいは宇宙人たちの姿については、やがて明らかになっていくでしょう。ここ数十年の間におそらく明らかになってくるであろうと思います。 金星というのはそういう意味で太古から霊的磁場の中心であった、こう言えますが、これ以外で太陽系で、木星人というのがおったこともあります。だけどこれはね、現時点ではもう生きている者はおりません。霊体としては木星人もまだおりますが、現時点では生きてません。 この木星人は今からおよそ、そうですね、まあ二十億年前から七、八億年前ぐらいまで生きておったことがあります。これも木星そのものじゃなくて、他の天体から飛んで来て住んでおったことがあったんですね。その形は非常に爬虫類によく似た形でありました。姿、形を言えば爬虫類に似ておる。全長三メートルぐらいの、まあ、ワニと恐竜なんかに似たような形でありましたが、高度な知性を持ったワニ、あるいは恐竜のような形でありましたね。だからワニ皮のハンドバッグなんか持ってる人は、よくよく反省しなきゃいけないですよ。昔、こんなとこ住んでたかもしれませんよ。ほんとは、懐かしくてワニ皮ばっかり愛してたりして。そういうことがあるかもしれませんね。ま、そういう生物もいたことはあります。 ま、これがだいたいなんて言いますかねえ、金星人、まあ木星人も入りましたが、だいたい金星人の話です。 2.オリオン星人 オリオン星人なんて言うと、ウルトラマンかなんかみたいな感じがみなさんするでしょう。オリオン星って言いますねえ、星座、オリオンというのがあって、まあ有名ですが、ここにもおるんですね。知性ある生命体がおります。 オリオン星座の人は非常に詩人が多いですね。詩的な魂です。芸術家たちが集まっておるんですね。芸術的魂がここから出ておることが非常に多く、住んでおります。その姿は非常に優美な姿をしております。 オリオン星人の姿というのをこの世的に表現すると、非常に天使の姿に近いです。私たちが天使と呼んでおる姿に近いです。もちろん手、足があることはあるんですが、羽が生えておることが多いです。羽が生えておるオリオン星人がね。ですから羽が生えておる天使が、竪琴(たてごと)かなんか奏(かな)でてるようなのをみなさんはギリシャ神話かなんかで見られたかもしれないけれども、まさしくそういう感じがするんですね。非常に芸術性の高い魂が多い。まあ体の大きさそのものはいろいろです。一メートル台から三メートルぐらいまであるのもおります。いろいろですが、天使の姿によく似ている。まあこういう星人がおりますね。 オリオンからも、地球にも多少は来ておらんこともありません。多少はいることはいますね。でもただ、オリオンからは肉体舟(にくたいぶね)で来るよりは、魂として地球に来た人がかなりいるように思います。魂として地球に来た人がいる。芸術家的な、非常に芸術家的な傾向を持った人は、オリオンから来た人が多いです。詩人であるとかね、芸術家、画家、音楽家、そういう素質が非常に強い人はここから来た人が多いです。 まあ、なんか名前から言っても芸術的な響きがある星ではないのか、まあこういうふうに思いますね。彼らは羽が生えておるけども、面白いことに羽が生えておって、空を飛べるオリオン星人と飛べないのがおるんですね。 飛べるのと飛べないのがおって、空を飛べる方が支配階級なんですね。で、空を飛べないのが奴隷階級になってます、ここはね。だからより高度な芸術家のために尽くすのが、空を飛べないオリオン星人ですね。これらは羽がちょっと小さいです。鶏の羽じゃありませんが、ちっちゃな羽になってますね。で、生まれつき大きい羽を持ってるのがおりますね。だから大きな羽持ってる者どうしがだいたい子孫創っていって、一種の貴族階級創っとるんですね。天使の貴族階級創っておって、彼らの芸術的な才能に奉仕するために羽の短いのが、だいたいあまり空を飛べないぐらいの天使みたいな形したのが仕えておる。まあこういうふうに言うことができると思いますね。 だから地球にあって霊界での天使という姿がよく言われてますが、これは霊体として来たオリオン星人たちの姿をみなさんよしと思われて、そしてまねをしてだんだんそういうものを創っていったことが多いんですね。まあそういうふうにだいたい思って間違いないんではないでしょうか。私はそう感じますね。 3.ベーター星人 まあ、これもSFかなんかみたいで、みなさん笑っちゃうかもしれませんが、べー夕ー星っていうのを私何度も言いましたが、これが母星です。地球の母星でございます。ベーエルダ星とも言いますが、ここから、だいたい今から三億数千万年前に、私を中心とした巨大言団が円盤に乗って移って来たんです。そこの星人の姿については多少前に話をしたかもしれませんが、地球人とそう変わらないサイズであったかもしれません。ま、違ってた部分でね、多少しっぼがあったとかね、耳がとんがっておったとか、まあそういうことを言いました。宇宙服着て飛んで来ました。 ベーター星の景色についても前にちょっと話をしたと思いますが、ま、非常に高度な星でありましたし、科学技術は非常に進んでましたね。それは地球の比じゃないです。科学というのは、まだまだみなさんね、五十倍も百倍も進む可能性があるんですね。そうしてくると、今なんか当然と思われないようなことがね、みんな当然になってきますよ。 みなさん今、空間移動するのに時間かかることは当然だと思ってるね。通勤に一時間半かかるの当然だと思ってますねえ。四国から東京へ来るのは大変だ、ね。秋田から東京へ来るのも大変だ。まあこういうふうになりますね。四国から東京へは日本エアシステムが飛んでるけども、秋田から東京へは全日空が飛んでおるとかね、まあこうぃうふうにいろいろ種類はありますが、大仕事であることは事実ですね。ただそうした大仕事をみなさんよしとしておられる。ところが科学技術が発達するとね、全然違ってくるんですね。 たとえば今空港へ行って、東京とその地方とを結ぶとて時間程度かもしれないけども、この空港まで行くだけで一時間以上かかったりする人いっぱいいるね。空港まで一時間半、成田や羽田でもそうだろ。一時間じゃ行けないなあ、空港までね、一時間、二時間かかっちゃう。空港まで一時間半で空港から三十分とかね、一時間とかいうことが多い。こういうのバカバカしいですね。 そうすると未来型のこういうべー夕ー星人たちはどういうことやってるかっていうと、たとえばここが地球がべー夕ー星だとして、羽田から、羽田発でね、どこでもいい、九州でも行くとしようか。九州に行くとする。そうするとそういう航空券買うね。羽田から九州行き買って、それがたとえば午前十時発としましょうか。そうするとどうなるかって言うとね、もう十時ちょっと前には空港からお迎えが来るんですね。ピューンとお迎えがね。個人お迎え飛行機みたいなのが来て、個人乗りのね、一人乗りロボットつきのね、個人お迎えみたいなのがピューンと飛んで来るんだ、自宅までね。自宅まで飛んで来て、ピューンと飛んで来て窓の外で止まっとるんだ。「あっら、もうお迎え来ちゃった」というんであわててネクタイ締めてね、ヒョイッと飛び乗る。そしたらシューッとね、羽田まで飛んじゃうんですね。シューッと一瞬ですよ。アッという間ですよ。シューッと行っちゃいます、ね。ほんの五分です。五分ぐらいでシュッと行っちゃう、ね。そういう中型、小型機だな。小型機迎えに来て、自動的にお迎えに来てシューッと帰っちゃう。こういうのが来るね。 それが今だと、まあ朝の四時起きだとかねえ、何時起きだとか言って、地下鉄乗って中央線乗って、東京駅出て、浜松町駅行って、あなたモノレール乗って行くんでしょ。大変だ、ね。こんなのブーブー言うとる。こんなの解決されますね。当然のことです。 それから弾丸列車みたいなの、もっとできますね。地下にチューブみたいなのができてね、ある点、ある都市、東京と大阪なら東京と大阪を重力みたいなもんでね、引っ張るような感じの弾丸列車が地中を走るんですね。 東京から発車して、地下へ向かってシューッと降りていくんですね。ジェットコースターの原理みたいです。それでその余力でもって大阪までシューッと上がっていく、ね。大阪から出てまた地下の方ヘシューッと深く降りて行って、その力でもってシューッと上へ上がって来るね。こういう直線距離ね、まったくの直線で、途中一切止まらないっていうようなチューブ型のこういう列車ですね。こんなのがいっぱい走ってますね。こういう星です。これはみなさんがいた星ですよ。もといた星の話、私はしてるんですよ。こんな星でございます。 あるいはねえ、もっと面白いのをあげようとすると、まあこういうのもあるねえ。みなさんは人の気持が読めないなんて悩んでるねえ。男性は女性の気持がわかんない。女性は男性の気持がわかんない。彼は僕が好きなのか、あ、違ったか、彼は私が好きなのか、「彼女は僕が好きかなあ、嫌いかなあ、わかんない」ね。あるいは「彼女はきれいな洋服着てるけれども、洋服の下はガリガリかな、それともゴールデンサイズかな、わかんない」ね。こんなわかんないことでいっぱい。この世は不思議がいっぱいですね。 ところがね、この国行くと、この星のべーター星では面白いんだね。個人がそういうマイクロコンピュータじゃないけど、こんなのをちょっと持っとるんだなー。胸のとこあたりにね、ちっちゃなちっちゃなマイクロコンピュータでものすごい頭のいいコンピュータがおるんだよ。そして道歩いとったり、あるいは仕事してていろんな疑問があると、ボタン、ピュッと押してね、「おい、僕のマイコンよ」なんてね。今、前に座ってる女性、ねえ、たとえば、二十二、三歳の女性が座っとるとする。「僕は彼女が非常に美しいと思うんだけども、彼女は実際どうだろうか」「たとえば結婚生活に適する方だろうか、どうだろうか」なんて、こうマイクロコンピュータに問い合わせをする。 そうすると、「しばらくお待ち下さい。調査します」と言って、「ピピピピピピッ」ときたら「ハイッ」五秒ぐらいしたら「調査結果が入りました。彼女は身長がいくら、体重はいくら、そしてバストはいくら、ウエストいくらです」ってね。「ところがバストが全然なくて洗濯板でございまして、この上で洗濯ができるぐらいです。ご主人様、これでよろしければお嫁にもらわれたらいいけれども、当機械と致しましてはね、洗濯板をお嫁にもらう場合には現在のように全自動がはやっておる時には、非常に似つかわしくないのではないかとのコメントもあります。それは最後はご主人様のご判断でございます」なんていうことをね、こういう便利なことをもし言う機械があったら、いいねえ。 あるいは仕事の時で、たとえば相手と話してるけど、「なかなかこの人ちょっと悪人面しとる」と、「もしかしてわなじゃねえか、引っかけるんじゃねえか」と思うね。そしたら秘密の装置でピピッとね、「おいどうだ調査しろ」って言ったら「わかりました、ご主人様」って言って、雑談してるうちにそのマイコンがね、中央の情報システムの方につながって、「おい、こういう何とか会社のなんとか専務と今話をしておるけれども、これはどういう人物か、信頼できるかどうか」って言ったら「ピピピッ、わかりました。すぐ調査します」って、興信所みたいなのがね、ものすごく早い。 もうデータがパーッと入っておってね、バババーッとあっという間に二秒か三秒でもう情報が出て来る。それが聞こえない電波でパーッと送られて来るね。そしてその装置にパッと入って来る。そしたらその装置はまた周りの人に聞こえないようにね、情報が本人には全部わかるんですね。自分だけに聞こえて、向こうに聞こえないような声が出るんですね。そして「この専務っていうのは前科三犯ですよ」って。「前科三犯で、特に結婚詐欺をよくやった人ですよ。まあこういう人ですから手形詐欺だってやるかもしれません」こういうのパッパッパッて言いますね、そしたらわかっちゃいますね。ま、こんな便利な機械も発明されます。人類の夢と言ってもよいでしょうか。ま、こんな機械ですね。 あるいはみなさんは、地球にいると物質化現象なんていうのは不思議で不思議でしょうがないね。イエス様は空中からパン出したとかね。空中から魚出したなんて不思議で不思議でしょうがないね。ところがこの国ではできるんだよ。このベーター星でできるんだ。そういう機械あるんだよ。あのみなさんね、なんだ、電子レンジなんか持ってるけど、空中からの製造機みたいなのがあってね、電子製造機あって、望みのもの押すね。そしたらそこらへんにある空中の成分使って作っちゃうんだ、ね。何でもいい。上にね、漏斗(ろうと)みたいなのあってね、そこにいろんな物をぶち込むんだ。何でもいいんだ、廃棄物でも何でもいい、ぶち込むと、その中からチューッと抽出(ちゅうしゅつ)してね、ミキサーみたいなのかけて、そして新しいもの作り出す力がある。 何でもいいんだ、物入れたらそれを分子、原子に分解しちゃって、そして原子、あるいはもっと小さな単位で分解しちゃってね、そして再構成するんだな。だから、はた目にはね、いきなり今の日本の電子レンジで言えば、電子レンジの中にいきなり物がボコッと出るような感じだ。上から何かを放り込むと、そらあなたね、椅子を放り込むとパンが出て米るとかね、こういう手品みたいなもんですよ。椅子を放り込むと椅子がパッと姿を消して、原子レベルかなんかに分解されてしまって、なんと今度パンになって出て来るという、ね、こんなのがあるんですね。こういう星の人が生活してるんですね。これがべー夕ー星人です。 だから、魔法の国みたいですね、まるで。こういうとこに私も住んでおったけど、魂の修行ができんのだ、もうあんまり便利すぎて。相手の考えてることとか、相手の情報が全部ね、ピッピッピッとわかってしまったらこんなんじゃね、俺たち自力がねえじゃないかって、ね、どうやって修行するんだってそんなとこで、もう便利すぎて全然ダメだって、ね。何でもかんでも機械万能でね、おかしいじゃないかって、科学万能でおかしい。私も科学者だったけど、まあそれじゃおかしいということで出て来たんだ。 ねえ、ジュースなんか飲もうと思ったって、そんなのボタンひとつで空中からジュースが湧いてくるんじゃこんなのたまったもんじゃない。こんなの面白くない。空中にたとえばね、ポーッとこうシャボン玉みたいな形で、もう「オレンジジュース」ってたとえばボタン押すとね、そういう装置、食事装置ってあるんだな、それを押すと空中の成分分解してね、オレンジジュースが出て来るんですよ。ね、空中にポンと水玉みたいなオレンジジュース出て来て、この水玉がポコポコと口に入ってくるんだよ。飲もうと思ったら、ペロッペロッペロッペロッと飲んだら終わりだな。こんなんですよ。 信じられるでしょうか、みなさん。ねえ、これだったら魂の修行がない。こういうこともあって、私たちはもう一回やり直してみたいという魂がね、大船団組んで、六千万人でもって大編隊組んで、十年かかって地球に飛んできたんですね。そして新たな地球人の元祖となったんです。そういうこともやりましたね。こういうことがあるんです。 ですからいろんな星があるんですよ、いろんな星で魂修行があるんです。みなさん方はほとんどもう一回やり直したい、地球という国でやり直したい、まあこういうふうに思ったと言っていいでしょう。 4.M27とM36 さてね、まあ銀河の中でM27と呼ばれてる星、それからM36と呼ばれてる星があるんですね。この二つ、Mっていうのはね、これはメシアのMです、ね。メシアという記号があるんです。M27、M36というのがありますね、今、出てます。まあこれはね、なかなかみなさんわからないかもしれませんが、銀河系にはメシアがね、だいぶおるわけです。 地球系団にはメシアと言われる人たちが約十名おりますが、全銀河系ではね、このメシアと言われる人たちがどれぐらいおるかって言うと、まあそうだねえ、数でいくと三千人ぐらいいるかねえ。メシアと言われる人たちは、全銀河では三千人ぐらいいると思います。地球では、その中の十人ぐらいがおるわけですね。その中で、メシアが地上に出るような星のことをM何とかと言うことが多いんですね。M27、M36、まあこういうふうに言われます。ま、M26なんていうとこにも、ちょっと小さなの出てます。 M37というところもありますが、これはメシアの番号なんですね。こういうのがあって、銀河系団で約三千人近いメシアかおるけれども、メシアにねえ、残念ながらみなさんね、序列があるんですよ。知らないでしょう。こんなメシアの世界で序列があるなんて許せない、なんて言う人いるかもわかんない。不平等だ。みんなあるんです、ちゃーんとあるんですね。地球系霊団でも九次元の十人に序列がついてるんですね、はっきりついてる。 ということは、地の惑星系団でもメシア序列がついておる。そうすると今度地球系のメシアと、オリオン星人のメシア、べーター星人のメシア、まあいろいろあるけども、これらのメシアと比べて、地球のトップが向こうの何番目に当たるか、地球のビリが向こうの何番目に当たるか、こういうのをまたコンピュータではじいとるんだなあ。全国統一方式みたいなもんで、共通一次試験じゃないけど、あるんですねえ。 だから三千人のメシアに能力管理がされていて、三千人の中で順番が一から三千までついとるんですね。パーッと全国統一ですね。三千人、予備校みたいなもんですね、三千人の中でメシア。そらみんなやってるでしょ、地球で何回も出ては仕事をしてる。そして実績がつくでしょ、それでコンピュータにインプットされてるんだな。これだけのことした、こういうインプットされてる。そのインプットデータが出て来るんですね。過去七回転生して出て来た。そしてデータが出て来た。ピピピッ、トータルの順位は三千人中、今、二五六一番、ね。かたや一四三一番、こう出てるんですよ。 そしてコンピュータ偏差値出て、かなりレベルが上がってきたら、地球ではもう魂修行するべきじゃない。五百番以内は地球はだめで、五百番以内は何とか星へ行かなきゃいけないとかね。こうやってるんですよ、進路決定で進路指導があってね。だいたい太陽系におれるのは何百番から何百番ぐらいの人がだいたいおる。 三千人いたらね、太陽系のメシアのレベルというのはだいたいどのぐらいかっていうと、まあ普通は五百番から千番ぐらいまでの人がだいたい太陽系に来るようになっとるんだな。メシアレベルでね。そうすると五百番より先になってくると、もうちょっと進化した星に行かなきゃいけないんだな。まあそういうふうに言えます。 もちろん太陽系といっても、まあ私みたいな人はまた別格ですがね。こういう別格はもちろんおるわけで、そういう人をヘッドと言うわけで、ヘッドはまた、全然違ってヘッドの順位はなかなかわからないようになっとるんですが、それぞれ自分が一番偉いと思ってコンピュータが教えない。まあこういうとこありますね。あるわけであります。 だから三千人でもね、ちゃーんと能力管理があって、実績と能力の管理があって、序列がついておる。そして、それも今世限り六十年、七十年じゃなくて、何億年、何十億年の過去の実績の積み重ねで、集大成で、ちゃんと成績が出とるんです、ピシーッとはじかれとるんです。そしてさらに転生していくんですね。まあそういうふうに言えます。だからメシアが出てる星はいくらでもありますが、それは全部メシアナンバーがついてます、ちゃんとピシッとね。メシアナンバーがついて、能力管理されてます。 そしてM27のメシアと地球のゴータマ・ブッダと、どっちが偉いか。どっちが偉い、向こうが偉いとして、それで能力係数でどれだけ差があるか。ゴータマ・ブッダがそのM27のメシアと同じ程度まで行くのに、あと何年の時間が必要であるか。ねえ、すぐパパパッと計算して、あとだいたい二万年必要と、まあ出るね。あと二万年のうちに何回出る必要があるかっていって、パパパッと計算して、だいたい十回出ればよいって出るね。 十回出てどういう仕事をすればいいかって、王様を三回して、何とかを、一番下を二回やって、それから何、科学者をやって、政治家をやって何かやってダダッて十回やると、だいたい同じレベルになるって、こう出るんですね。うーん、面白いですねえ。こういう能力管理があるんですよ。 だからみなさんね、試験受けてヒーヒー言ってたらいけないよ。まだもっとすっと上でもあるっていうことね。能力係数が、ちゃんとはじかれてるんですね。まあ、そういうことですが、具体的にどの人が何番かなんていうことはこれは恐れ多くて言えません。恐れ多くて言えませんから私は言いませんが、だからそういうふうに序列はあるということ。だからこれはどこの世界でもあってね、それが調和と進歩と両方に奉仕しとるんですね。まあそういうことは言えると思います。 5.大宇宙の救世主 ま、そういうことですから、いわゆる救世主と言われる人も相当の数はいます。三千人って言ったら大会社ぐらいですね。大会社の、中会社かな、人数ぐらいだと思います、社員のね。それぐらいの人いるけれども、その中でもやっぱり課長クラス、部長クラス、ね、役員クラス、社長クラスとおるわけですね。 で、大宇宙の救世主、どこにおるんだ、一体誰だ、この三千人のトップに立っとるのは一体誰だ、ね。あるいは重役クラスは誰だ、一体、まあこういう疑問があるわね。三千人ぐらいの会社だったら、重役がだいたい三十人ぐらいかね。役員さんでは二十何人か三十人ぐらいと思いますね。三十人ぐらい。そしてその中にヒラ取締役、常務取締役、専務取締役、副社長、社長、こうおるわけですね。 まあ、どの程度か。果たして高橋信次は三千人中取締役になっておるのか、なってないのか。あるいは取締役降格されて左遷(させん)されたのか。子会社の社長として出向させられたんだろうか。このへんはみなさん疑問があり、興味もあるとこでしよう。これについては私は何も語りません。 ただね、まあ銀河系団の中では、銀河系、そうだなあ、うーん、大宇宙の中で、と言っても難しいかもしれないけど、ちょっと、ま、みなさん方は知らないのもおるけども、銀河系の中ではまあこの大宇宙の中で、そうだね、専務クラスぐらいの魂はおるわけですね。大宇宙の中の専務クラスぐらいの魂がおります。 こういうのは、もうほとんど惑星意識になりかかってますね。まだちょっと人格が残ってるけども、つぎ行ったらもう惑星の意識そのものになっちゃうような人たちですね。このへんは相当の力を持ってますね。この程度の人たちになってくると、星を移動させるぐらいの力持ってますね。星を移動させたりね、星丸ごとね、潰(つぶ)したりね、消滅させたり、出現さしたりするぐらいの力持ってますね。この程度の力があるんですね、霊能力でも。 いくら霊能者たってあんた、地球潰したり地球出したりできないでしょ、そう簡単に。その程度の力持っとるのがおるっていうことですね。霊能力として、タマゴ出したり二ワトリ出したりするぐらいの霊能者かおるわけだから、もっとすごくなりゃ地球出したり消したりするぐらいの霊能者おってもおかしくない。この程度の力持っとる人が、大救世主の中のまあ専務クラスですね。銀河系にはこの程度の人もおります。実際この程度の人も二、三名おります。こういうとこですね。 大宇宙の大救世主、それは高橋信次です、というのはまったくの嘘でございますが、まあべー夕ー星っていう私がいたとこにもね、やっぱり専務クラスはおりました、ね。そういうことで、大宇宙の救世主はなかなかわかりません。ほんとはわからないんです。おるはずなんですが、一体誰なのかわからないんです。私たちにもよくわからないんです。わかんないということで私らがどの程度かだいたいわかると思いますが、わかんないんですね。ただ、どこかにはおるはずなんですね。 で、これなんかもほんとは惑星意識になってもいいような人間がね、おそらく惑星意識にならずに、人格霊として統治をしておるんだろうと思うんですね。こういう一段高いのが、多分統治をしておると思いますね。救世主の世界に止まってね。そういうことです。だから私もまあ、まだまだ修行の余地があって、頑張るつもりです。だからみなさんもね、頑張っていこうねー。いろんな勉強していくんだよ、ね。そういうことだ。 で、今年はこれでまあ、一冊目スタートと、いうことです。
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目次 1.人生の目的を知るには、まずあの世を知れ 2.魂は、握一点、開無限の存在である 3.魂は肉体意識と共に成長していく 4.最後の審判の本当の意味 5・地獄は特訓所である ― 餓鬼地獄の実態 6.多くの現代人が堕ちやすい血の池地獄の実態 7.地獄の特訓所は自分の欠点を悟る早道 8.人生を永遠の転生輪廻の中で捉えなさい 9.人間はすべて天国から生まれ変わってくる 10.三次元世界創造の二つの目的 11.高級霊にとっての三次元の意味 12.人間の使命はできるだけ多くの人を幸福にすることにある 13.人間の偉さは、どれだけ多くの人を幸せにしたかによる 14.人生の目的、使命についの要約 11.高級霊にとっての三次元の意味 ただ、あなたも疑問があると思うけれど、じゃ下の次元の人が、上の次元の人に教育されるということはあるでしょうが、逆に、上の次元の人、つまり、菩薩界、如来界の方が地上に出たって何か勉強することがあるんですかと、ないんじゃないですかと、こう思うでしょう。ところがそうじゃないんです。 あなた、例えばダイヤモンドというのは、ダイヤモンドを、指輪なりネックレスに加工するためには、ダイヤモンドの面を綺麗にしなければいけないです。じゃダイヤモンドは何で磨くのか。ダイヤモンドは、切り取る時はダイヤモンドより硬い物で勿論、切り取るけれども、磨く時は、そうじゃないんですよ、柔らかい物でやるんです。これは刃でも一緒ですよ。刃磨く時、砥石、砥石で磨きますよね。砥石は鉄より硬いかというと硬くないですよ、鉄より硬くないんですよ、硬くないもんで磨いて刃が光るんです。 ですから高次元の方も、自分より上の人だけが指導できるんじゃないんです。自分より下を見て悟ることだってあるんです。当然です、そういうことなんです。例えば、自分が悟っているということが、悟ってない人を見ることによって、どれ程幸福か、これも勉強になるんです。それで、また、私は私で高橋信次として、近年肉体を持ちましたが、肉体を持って生まれてみると、いろんな人と会いました。悟ってない人と色々会うことによって、この世の中の不思議を知り、いろんな人が、どんなことを経験するか、随分勉強させてもらいました。いろんな使命を持って人間が、生きているのです。だから様々な人を見ることによって、世界を見る目ができるのです。 或いは、更に一歩進めて言えば、神様の御心が、どの辺にあるかということを見極めることができるのです。 つまり高級霊にとっても、この三次元に生まれるということは、神様の創造した世界の全てを一瞥(いちべつ)できるのです。そういうチャソスなのです。普通は、関心ないような人たちと会えるんですからね。 そういうことで、人生の目的で、特に三次元における肉体人間の目的としては、今言った二つなのです。不自由さを感じて霊的な幸せを得るということ、また、様々な人が交わるということです。これが人生の目的です。 そういうことを経験して、更に高度な自分、悟った自分、勉強した自分を創るということです。これが目的です。 12.人間の使命はできるだけ多くの人を幸福にすることにある あと、使命というのがあります。使命について、もう少し話したいと思います。 今、私は個人、一人の人間ということを中心に話しましたが、使命というのは、これは他人との関わりということなのです。これが使命なんです。人間は自分だけのために生きているわけじゃないんです。自分だけのために生きていくなら、南海の孤島か何かに生まれて来ればいいんです。ポツンと、生まれて来て、豚でもいい、猫でもいい、ペンギンでもいいけど、それと暮らしていればいいんですよ。ペンギン抱いて寝てたらあなた、地獄へも堕ちないし、争いも起きないですよ。そうですよ、その通りなんです。 ところが、残念ながら可愛いい女性が一杯居て、心が散々(ちりぢり)に乱れるから、執着のとりこになって地獄へ行ったりするんです。だから女性なんか居ない島へ行って、男一人だけで住んでいれば、あんまり地獄に堕ちることなんかないです。ところが、いろんな人が居る所へ住んでいろから、間違いもしでかして、地獄へ堕ちてしまうんです。 だから、使命ということに関して言えば、やはり、他の人と一緒に生活する、共同生活する、ということが一番大事なんです。では何故、共同生活するのか、結局人間は、他の人に対して自分は何ができるか、ということを勉強させられているんです。それが分らないんです。大抵の人がテストでいくと、いい点を取りたい、いい会社へ入りたい、人より多い給料を貰いたい。人より綺麗な母ちゃんを貰いたい。こういう自分が、自分がと言っている。ところが自分が、自分がとして生きていると、だんだん人生が苦しくなってくる。人と比べて悪い自分ばかり見て、欲望を募(つの)らせると病気になったりして、だんだん悪くなる。ところが、もっと素晴しいことが、この世にはあるんだということに気づくのです。ある時は、そういった自我我欲のままに生きていて、人の親切に触れて、はっと悟ることがあるんです。 会社の経営者として、社長として、ワンマン社長で偉そうにやっていた。そしたら、「あいつ気に喰わない」と言っては首を切り、「あいつはお世辞を言わなかった」と言えば左遷し、そういう勝手気気儘(かってきまま)に生きていたような社長さんが、或る時ポッと病気をしてしまう。その時に、自分が左遷した部下が、「社長大丈夫ですか」と見舞いに来たりする。「あっこの男、本当に優しい男だな、自分からあれだけの目に合わせられながら、自分の体を気づかってくれて、ああ、こういう尊い心があるんだな」経営者は、その時悟るわけです。そして自分が、じゃ今、病気で倒れているけれど、もし健康体にもう一度なれたら、できるだけ全社員のために尽してみたい。多くの人たちを生かしてみたい。そういう菩薩心というのが目覚めて来るわけです。これが大事なんです。 13.人間の偉さは、どれだけ多くの人を幸せにしたかによる 人間の偉さというのは、どれだけ多くの人々を救ったか、救ったという言葉が傲慢(ごうまん)に聞こえるならば、どれだけ多くの人たちを幸せにしたか、ということです。 あなたにしてもそうです。あなたが、どれだけ立派な人生を生きたかということは、勿論、その証拠は、色々あるでしょうけれども、どれだけ多くの人々に尽くしたか、どれだけ多くの人々のためになるような生き方をして来たか、どれだけ多くの人を幸せにしたか、この基準なんです。 よく、あの世の世界で、宗教家が一番偉いと言われています。ところが、この世の世界では、宗教家が一番偉いわけではなくて、もっと社会的に地位の高い人が一杯居る。総理大臣だ、裁判官だ、医者だ、弁護士だと、会社の社長や偉い人が一杯居ます。宗教家は、必ずしもトップじゃない。ところが、あの世へ帰れば、本当の意味での、真実の宗教家は、一番トップですね、神様に近い所に居ます。何故そうか。それは、多くの人たちの心の糧になり、多くの人たちを幸せにしてきたからです。 企業の経営者として、企業の人々を養うことができます。ところが、それは高々、数千人、数万であります。大企業といえ数万人です。 一方宗教家というのは、キリストにしてもそう、釈迦にしてもそう、その時代の人たちだけでなくて、以後二千年、三千年にわたる人類を救ってきたわけです。それらの人たちに光明を投げかけてきたわけです。ですから、不幸せな人々を幸せにするという範囲が、途轍(とてつ)もなく大きいんです。 ところが会社の経営者、二千年後の人に影響を何か与えますか、与えません。お医者さんどうですか、病人は治ります。しかし病人もやがて死んで行きます。その後どうなるんですか。裁判官は、人を裁いています。結構ですよ。でも裁かなくてもあの世に行けば裁かれちゃうんです。裁こうが、裁くまいが、関係ないんです。 総理大臣は、選挙で落ちたら、ただの人、選挙に通れば、もう一回再選されたりして、そして、日本で一番偉いように考えられます。あの世へ帰ったらどうかわかりませんよ。戦後の首相で、天国へ行っている人は少ないですよ。地獄ヘ一杯行っています。何ででしょうね。本当に自分が日本国民のために尽くしたのか、或いは、自分としての栄達を求めたのか、そこがチエックされているんです。 やはり偉くなりたい人が多いんです。人の上に立ってみたい、人に命令してみたい、そういう人が多いんです。そういう人は地獄へ行ってしまうんです。だから総理大臣という地位は、日本一偉いんじゃないんです。最も地獄へ堕ちやすい地位でもあるんです。多くの人たちを、間違って指導することもありますから。だからむしろ田舎で、一人で生きている方が、むしろ迷惑がなくていいかもわからない。多くの人を使えば、使う程、心に歪みを作ればそれだけ悪い影響を与えちゃう。自分だけでなく他人まで。だから責任ある立場にある人は、それだけ難しいということを、悟らなければいけないんです。 また、その人の力によって、いろんな人を苦しめた場合は、その人たちの恨みが解けるまで、なかなか地獄から出てこれないんです。それだけ難しいんです。 14.人生の目的、使命についの要約 ですから私は以上、色々語ってきましたけど、総括すると以下のようになります。 人生というものの捉え方を、永遠の転生輪廻の中で捉えなさい。いいですか、永遠の転生輪廻の中で、自分の今世の役割、今世に命を得た意味、こうしたものを探究しなさい。これが最初です。 そして人生の目的とは何か、肉を持った人間の人生の目的とは、何か、それは霊的に目覚めるための下準備、これが一つです。不自由な物質世界で経験することによって、霊的に目覚める準備が一つです。もう一つは、いろんな次元の意識を持った人たちと会うことによって悟りを更に磨いて行く、こういうことが一つです。 そして使命とは何か、これは他人を幸福にする。できるだけ多くの人を幸福にすることです。 ところが、これは、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、これはあなた誤解しているかどうか知らないけど「情けは人のためならず」というのは、情けを掛けたらその人が良くなるわけじゃないから、情けを掛けるなという意味じゃないんです。「情けは人のためならず」というのは、情けを掛けた、その情けは、やがて自分に返ってくる。だから人のためでなく、自分のためなんですよ、というのが「情けは人のためならず」という言葉の本当の意味です。 ところが今、多くの人々を幸せにするという話を私がしましたが、多くの人々を幸せにするとどうなるか、それは人のためならず、なのです。自分自身なのです。結局は、多くの人々のために生きられた人というのは、それだけ大きな人生を生きた、ということなのです。それだけ自己が大きくなった、ということなんです。器が大きくなった。それに目に見えない光の量、光子体というのを人間持っていますけれど、その光子体の量が、それだけ増えるのです。多くの人のために生きた人生というのは、多くの光子体を持ってあの世へ行けば、高い意識の人たちと一緒になれるんです。だから救世主のような仕事をすれば、あの世で、イエス様や仏陀と会えるようになるわけです。だから人のためではないんです。結局、自分のためなんですよ。だから人のためを思う人が自分のためになり、自分のためを思う人が、自分のためにならない。こんな矛盾があるんです。パラドックスがあるんです。結局そういうことなんです。だから使命というのは、他人に尽くすことによって、自己の向上を目指すということなんです。これが使命です。 まあ大体今日はそういう話です。
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目次 1.どうしたら心の深い傷がとれるか 2.未婚の女性にとっての正しい男性観とは 3.ある愛人デザイナーの転生と今世の生き方 3.ある愛人デザイナーの転生と今世の生き方 (問) 私はデザイナーをしていました。二十歳のときに結婚して、五年後に離婚しました。夫だった人は理想的な男性で、何の不満もありませんでしたが、ある日、私のほうが飛び出してしまったのです。今日まで何回考えても、なぜそうしてしまったのか理解できません。まず、この理由を知りたいのです。私は、夫だった男性を今でも理想の男性だと思いますし、尊敬をしています。 これがスタートでした。それ以後、何回か恋愛をしました。そのたびに、いつも素晴らしい男性に巡り合うのですが、大切にされればされるほどに、心が離れていく自分をどうしようもありませんでした。男性が自分のほうを向いてくれたときには、もう心が離れている。このように、人の心をもてあそぶようなことを続け、そのことにある種の快感を味わっていたような気がいたします。 ただ、恋愛中は、本当に一生懸命に、一心不乱にその男性のことを考えているのです。何事も相手の気に入るようにと、食事、衣服、動作、言葉使い、趣味……ありとあらゆることに神経を使い、その男性の好みのタイプに自然となっていくのです。 そしていつも、もう一人の自分が、私にどう演じたらよいか命令するかのごとく進んでいきます。でも、すべてを忘れ、すべてを投げうってもというふうにはなれなく、いつも心のどこかで醒めているのです。この醒めた心は何なのかと考えました。結局、理想の男性を追い求める自分は、もっと素晴らしい男性がいるのではと、いつも捜しているから満足できないのだと思っていました。 今、おつきあいしている男性は、アメリカの実業家で、四十七歳です。この人は、私にとって、すべての条件を兼ね備えた理想の男性です。ただ、本国に、奥様と子供がおります。ですから、私とは、年に数回、日本や外国で会うだけです。毎月、数百万円を送ってくださり、また、お目にかかるときには、必ずたくさんの宝石やいろいろなおみやげをくださいます。本当に、よくもこれほど気がつかれると感心するほどに、細やかな心遣いをしてくださいます。そして、決していばることなく、常に優しく、暖かく、本当に私を犬切にしてくださいます。また、いつも、「自分のできる範囲で一生面倒を見ますから、将来を心配したり、悩んだりしないように」と言ってくださいます。私たちの間は、゛信じる゛ということだけでなりたっているのです。 とはいえ、これは、私にとって、大きな悩みでもあります。私は、彼の家庭を壊してまでも、自分が幸せになりたいと思いません。でも、その反面では、私の未来はどうなるのかを考えてしまいます。いつも待っているだけで、自分から行動することができない。いつも自分で食事をして、一人で寝て、病気のときも一人です。社会的なことや法的なことも、すべて一人ですませる。だれも相談する人がおりません。この心の寂しさをどうすればよいのでしょう。心の奥では、一緒に生活をわかち合える彼であってほしいと願ってしまいます。こうぃう不安定な精神状態ですので、ふっと魔がさすように、他の男性に心が動くことがあります。決して本気になってはいないのですが、一時しのぎに、寂しさをまぎらすために、他の男性とつきあってしまうのです。 そして心のなかで、いつも言い訳をしています。「だって、彼は、いつも家族と一緒で、毎日、奥様と一緒に寝ているんだから」と。そのたびに、改めて彼の素晴らしさを実感し、本当に彼以外はいないんだと、始めからわかっていることなのですが、また改めて感じるのです。このように、後悔ばかりしてしまいます。 私は、本当は、彼との結婚を望んでいます。でも、それができません。これは、゛ジレンマ゛です。彼は、私のことは、もう気持ちの上では妻のようなものだと言います。でも、実際に妻と愛人とでは、大きな差があります。自分の立場が嫌だったら、別れればよいのでしょうが、それもできません。彼を愛しています。尊敬しています。彼も、私を愛してくださっています。私は、毎日悩んでいます。精神的にも、肉体的にも。 私が結婚を求めることはエゴになります。他人を傷つけてしまいます。私は、ただ暖かくつつんでくれる人が一緒にいてほしいのです。また、彼のために何かをしてあげたいと思っています。そして、お互いに助け合って、成長していきたいのです。 また、正直申しまして、将来に対しての不安もあります。自分の将来は、どうなるのか。そして、老後はと、考えてしまいます。ただ、今日までの自分を振り返ると、ある意味では、私はラッキーだったと思います。現在も、経済的にも、仕事にも恵まれています。ですから、こんなにラッキーなのに、しかも、素晴らしい彼に巡り会えて、こんなについていてよいのかしらと、そうしたことも、不安になります。 これには、深い意味があり、大きな使命があるからなのでしょうか。一般的な女性として生活しながら、男女の愛を通して、ある種の悟り、あるいは、法が説けるような、そんなことを夢見ています。というようなわけで、本当の自分の目的、何をしたらよいのかがわかりません。また、彼のためにつくしたいのですが、どうつくすべきなのか。あるいは、自立して独立することが、彼に対しての報恩になるのでしょうか。また、他の男性に心を動かすだけでも、罪になりますか? 私は十五、六歳の頃から、病気がちなのですが、いつも理由のはっきりわからない病気でした。またこの五年間には、大病をし、大変苦しみました。今は回復したと思いますが、また将来、病気になるのではと、いつも不安があります。この病気は、何か意味があるのでしょうか。男性の念がきているのでしょうか? 彼はエネルギッシュなタイプです。男性の愛の証しはセックスにあると彼は信じているようです。私はそうは思わないのですが、長いおつきあいの間に、彼とのセックスにも慣れてきて、喜びを感じるようになりました。私には、彼がすべてなのです。彼を通して、何かを学びたいのです。どうぞ、このような悩みにも、お答えいただけますように、心よりお願い申し上げます。 デザイナー(女性)29歳 (答)イタリヤのローマに生まれたときの前世 この方に対して、お伝えいたします。話のポイントがずいぶんあるようなので、まとまった話になりますかどうか、私にも自信がありませんが、思いつくままに話をしてみたいと思います。どうやら、この方には、まず過去世から話をしていかなければならないようです。 この方の一代前は、今からちょうど五百年くらい前のようです。千四百年頃の中世ヨーロッパです。どうやらこの方は、千四百年のイタリヤはローマに生まれました。そして、ローマの地で、四十二歳の生涯をとじたようです。このローマの地で彼女がやっていたことは、言葉は大変申し訳ないのですが、売春婦でした。彼女は十七歳のときから売春婦として、四十二歳の亡くなるまでの生涯を送っています。もちろん、家庭環境も悪かったのでありましょうが、身売りをして、収入を得なければいけないような、たまたまそのような巡り合せになりました。他の生き方もできたのでしょうが、やはりこの人の天性の要求するものといいますか、そうしたものが、売春の道をいったん味あわせると、そこからなかなか抜けがたくさせ、その道にのめり込んでいったようです。 十七歳で売春を始めて四十二歳で亡くなる二十四、五年の間、この方は、おそらく三千人くらいもの男性と夜を共にしています。実に三千人くらいにはなると思います。若いときは、手あたり次第という有様でしたが、三十代の半ばくらいになると高級娼婦として、ローマでもだんだんのしてきます。ローマの売春窟において二十人、三十人の少女を雇って、売春業を営(いとな)み始めた。まあ、売春窮のおかみさんですね、そういうことをやっていました。そして、若い者を使って、収入をあげるという道、これを大変心得ました。 自らは高級娼婦として、社会的地位のある人以外は相手にしませんでした。この方は、その当時、大変容貌もあり、才器もあり、女性としての魅力もあったようです。まあ、今日で言うならば、相手の申し込み、夜の申し込み、貴族とか社会的地位のある人から申し込みを受けていた。それでもですね、自分の気に入った男性でないと受け入れないというような気位の高い生き方をしておったようです。 ただ、晩年の四十二歳になったとき、この方は、一人の男性の恨みをかって、不遇な殺され方をしています。まあ、これも売春の相手ではあったのでしょうが、その男性が金を持っていた時期はよかったのですが、金を持たなくなって、この方がその男性を相手にしなくなったときに、その男性が逆恨みをしたのです。そして、ある晩、ある男性と腕を組んで歩いているこの女性を不意討ちで殺しています。四十二歳の生涯でした。 あの世の色情地獄での体験 その後、この方は、実在界に還って約三百七十年、色情地獄に堕ちておりました。色情地獄というのは、今で言えば、血の池地獄というのが代表的でありますが、この方が堕ちた地獄というのは、この血の池地獄とは若干違うところでありました。 この方が堕ちた地獄というのは、日本ではなく、やはりローマでしたから、ローマ風の洋風の地獄であります。洋風の地獄でありまして、日蓮の目に映ってくる情況を申し上げますと、どうやら背後にレンガがあります。これは建物の一角のようにも見えますが、レンガがあるところは薄暗い場所です。天井から鎖が二本たれています。そして、二本の鎖で、この方は腕をしばられていますね。逃げられないようになっています。上半身の一部は宙に浮いている形ですが、あとの大部分は下の床に寝ているような形です。 こういう情況において私の霊眼に映ってくるのは、どうやらこれは、人間ではないようです。人間でないものが入口から入ってきて、この女性のほうへ向かっています。これは動物です。巨大な動物です。どうやらこれは、ライオンですね。ただし、ライオンの形をとっておりますが、本当のライオンではありません。これは、かつて畜生道に堕ちた人間、そうしたものが、長年いる間に、ライオンのような姿になってきたようです。 こうしたライオンのようなものが、部屋のなかに、二頭、三頭と入ってきます。驚くべきことに、そうしたライオンが、この女性の上にのしかかって、この女性を犯しておるようであります。どうやら、そういう地獄のようです。色情地獄と畜生道が重なったようなところです。かわいそうにこの女性は、三百五十年の間、こうしたライオンを中心とした人間に犯され続けたようであります。 そうして、約三百七十年くらいが経過したようですが、まあ、千八百年代になって、ようやく地獄から出て来ました。地獄から出て来た原因は何かと言いますと、どうやら、この女性は、ライオンとのセックスに飽きたようであります。飽きて、こんなことばっかりしていてもよくないと悟ったということが一つ。それともう一つには、守護霊、指導霊の類ですが、それがどうやら普通の守護霊ではないようです。魔界のものです。いわゆる魔女たちと呼ばれるものが、この人の守護霊をしているようです。 そういった、やはり西洋風の魔法使いのいるところが、どうやらこの方の本来の住みどころのようです。そういう魔法使いの世界と地獄界とを転生輪廻しております。魔法使いの守護霊たちが何人か来て、この女性を救い出したようです。そして、その後、天上界とはいえませんが、こうした魔法世界に住んで、百何十年たって、また今世に生まれ変わってきたようです。これが、この人の前世であります。 中国、三国志の頃、后(きさき)であった前世 ここで、もう一つ前の前世を透視して見ましょう。場所は中国です。中国で、どうやらこれは三国志の頃でしょうか、いろんな国が乱立しています。この方は、そのなかの一つの国で、いわゆる王女といいますか、后であったようです。すなわち、国の領主の后であったようです。 この領主には、何人かの妻がおりました。おおよそ四人から五人くらい妻がいたようです。そして、この女性は、もちろん、一番寵愛(ちょうあい)されていた女性なのでありますが、他の者や他の妻たちと大変な争いを起こしたようであります。いつもいつも、争いを起こしていました。すなわち、どうやったら、自分は、この国王といいますか、領主の気持ちを握ることができるか。要するに、他の女性たちをしりぞけて自分のものにするかということに、ずいぶん、血道をあげたといいますか、努力をしたようであります。 あるとき、この国王が隣りの国との戦争に勝って、隣りの国が降伏しました。そして、隣りの国の皇帝の妻、あるいは側室、そうした美女たち約十名が、この国に運ばれてきました。つまりは、彼女たちが、この国の主人の側室となったわけです。しかし、この女性には、それがとてもたまらないことだったようであります。そこで、あることないことをいろいろ言った。たとえば、隣りの国の陰謀で、国王さまに毒を飲まして殺そうとしているらしいとかいうことを言って、彼女たちを陥れて、拷問にかけたようです。そこで、この十人の側室たちは、ほとんど殺されてしまいました。この女性の手によって、殺されています。このように、皇室のなかでの陰湿な争いで、自分の実権をどうしたらつくりあげることができるかということに腐心してきたようです。 そのときの国王というのが転生してきて、この女性の今の彼となってきているのですから、この方がまた生まれ変わってきて、愛人となっているのは当然なのです。ですから、この方が彼を愛しているのは、前世で縁のある男性だったということからしても、当然です。そして、救いがあるのもまた、当然だと言えます。この中国時代とは、おそらく今から千数百年前、千七百年ほど前でしょうかね、紀元でいくと三百年代、四百年代だろうかと思います。 ギリシャ時代で、ソクラテス学派の人たちの世話役だった前世 この方には、そのまた前世があります。それを見ると、生まれていたのは、ギリシャの地のようです。今からちょうど二千五百年から二千六百年ほど前、ソクラテスたちが哲学を説いた正法の時代に生まれてきています。ソクラテス学派、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、こうした人たちの哲学の一派があったのですが、このときに、この方は、どうやらこれら哲学者の周りにずいぶん出入りをしていたようです。 つまり、哲学を学ぶ人たちの世話役、こういうことをしていたわけです。ソクラテス、プラトンは、学園を持っておりましたが、そこで、食事をつくったり、いろんな男性の身のまわりの世話をしたりといったようなことをしていた。そのためか、多少教えといいますか、法というものに関心があったようです。ところが、おそらくその頃にカルマが出始めたのでしょう、この方は、ソクラテスの弟子をずいぶん勾引(かどわ)かしたようです。修業しようとしている青年、哲学者たちを自分の術中に陥れて、だいぶ迷わせた。当時は、哲学を学ぶ者には、あまり結婚を勧められないような情況にあったのですが、そうした人びとを、誘惑した。何と言いますかね、本来は学園で授業をしているはずなのに、その生徒がいない。調べてみると、この女性と、密会しておった。それがばれて、ソクラテスやプラトンに破門されたお弟子さんもいたようです。この女性が惑わしたお弟子さんが、少なくても二、三人はいたはずです。結局、この女性は、その学園の世話役から追放されてしまったようです。 ただ、このギリシャの時代においては、この女性は、多少なりとも、そういった神理を学んでいるために、心のどこかには、そういった法を求める気持ちはあったと言えます。これが、この女性の三代前の過去です。 過去世の総括 この三つの過去を見ると、この女性が持っているカルマというものが、だいたいどういうものであるかが分ります。一番昔の過去において、一つには、何らかの意味で法に触れて、法を学ぼうとはしている。それでありながら、法を学ぶ者を誘惑して、堕落させるというような事実もあります。 その次に、中国に生まれたときには、非常に権勢欲のまっただなかに生まれてきました。そして、他の女性たちとの不調和に悩みながら、いかにしたら、自分が男性の心を射止めるか、掌中にできるかに腐心(ふしん)して、他の女性をずいぶん貶(おとし)めるような残虐なことをしたようです。そして最後には、イタリヤに生まれて、娼婦の大親分として、多くの男性と性的な関係を持つ一方では、他の若い女性をその道へ走らせたようです。 この方は、過去三回生まれて、三回とも、いずれも何百年間、すべて地獄へ行っております。この女性が行ったところは、色情地獄、ないしは畜生道、動物界ですね。こういったところを転生輪廻しておったわけです。まあ、こうした過去があるということを前提として、この女性の現在というものを、もう一回、振り返ってみたいと思います。 最初の男性と離婚した真の原因について まず、最初の男性と結婚したわけですが、五年後には離婚しています。理想的な男性であったけれども、なぜ自分が家出をしたのかわからない、と。実際、この男性は、ずいぶんこの女性につくしたようであります。しかし、この女性は、この男性を捨てた。これはですね、この女性のカルマからきているのです。この女性は、相手の男性があまりつくしてくれると、どうも捨てたくなるようです。これは、そういうカルマを持っておるからです。すなわち、どうしても手に入れがたい男性であってほしいというような願いが、この女性にはあるようです。 ところが、最初のこの男性の場合は、競争相手もなく、向こうが一方的に、この女性に入れ込んできたために、この女性としては、どうやら不満になったようです。そういうことがあるようです。ですから、こういう女性は、今の彼のように相手がある程度の人であっても、相手がもし気を許したりすると、また逃げ出してしまうかもしれません。他の女性がいて、つまり、相手の女性との競争があったりしたほうが、自分がおちおちしておれないのでいい。こういう綱渡り的な危険な恋というのが、ちょうど刺激に合うのです。そういう恋でないと、満足できないのです。だから、この女性は、安定した家庭というものに入ると、逆に満足できなくて、これを捨てて、飛び出してしまう。これは過去世のカルマなんです。 すなわち、過去世の数多くの男性と交った経験があったし、また、そうした権勢欲のまっただなかで生きたという過去もあったからだと言えます。ですから、最初の男性が理想の男性で、尊敬をしていたにもかかわらず飛び出してしまったというのは、まさに、理想的な男性であったからこそです。その彼が何もかもよくしてくれたから、逆に出て行ったのであります。この女性の相手の男性が、人格者でなくて、たとえば、暴力をふるってくるような男性であったならば、長続きしたかもしれないのです。生命を取られるのは怖いですし、なかなか勇気がいるものですから、そういう男性となら、長続きしたかもしれません。 とにかく、過去世を見ても、この女性は、安定しない人生を選んでいます。この女性は、ひとたびある男性を好きになったら、相手が夢中になるようなことをする。直前の過去世では、娼婦の親分をやっていたのですから、それはそうでしょう。しかも、三千人もの男性の経験があるのですから、男性のことに関しては、もちろん、プロです。何もかも、知りつくしている。こういう過去世の知識もあるのです。 もしあなた方が、自分の心の扉を開けて、過去世を見れば、パーニャパラミッタといって、般若(はんにゃ)の知恵が湧いてくるはずです。こういう般若の知恵もあるのです。男性のことは何でも手に取るようにわかるという、こういう百科事典みたいな般若の知恵というものがあるのです。女性でも、一回くらいは、こういう経験をしたらいいかもしれませんが、こういう方もいらっしゃるということです。ですから、この女性が、男性がすぐわかるというのは、直前の過去世からの影響です。 今の彼は今世において一番縁のある男性である さて、現在のアメリカ人の彼とのことについてですが、実際、中国にいたとき、この方たちは夫婦でした。夫婦というか、領主、王様と側室というような関係があり、縁ある人ですから、もちろん好きになるのは当然でありましょう。どうやら今世において、この女性は、アメリカ人の男性と一番縁があるようです。 この方は今、自分が相手の家庭を壊してしまうのではないかと思ったりしているようですね。これは、中国のときのカルマの刈り取りの、ちょうどいい経験を、今していると言えます。相手の家庭をメチャクチャにしないのは、この女性が多少なりとも進歩している証拠です。これは、本人にとっては悩みでしょうが、私たちから見れば、多少なりとも魂が進歩してきているというありがたい証拠なのです。多少は躊躇(ちゅうちょ)してもらわねば、困るのです。勝手に男性を見ては、それを勾引(かどわ)かして、その男性の家庭を壊しているようでは困るのです。やはり良心の痛みがあって、躊躇するようであっていいのです。そうなって初めて、普通の人間らしい気持ちがあるということです。ですから、悩みがあるということは、この女性にとっては、プラスなのです。そこで、この女性には、相手の方の家族、奥さんと子供、そして自分との関係をおおいに悩んでいただきたいと思います。 アメリカと日本と地理的に離れている。だから、めったに会えないというのは、ちょうどいい、この女性にとっては、勉強の材料なのです。この女性は、相手が手近にいると、毎日毎日、大変なことになってしまう。すなわち、男性のなかに自分のすべてというものを投入していくような女性なのです。そういう女性なのです。ですから、短時間で男性を迷わせて、ダメにしていきます。そこで、このように空間的に離れていることが、どうやら長持ちをさせている秘訣だと言えるのです。 この女性には、今まで、いつも手近に男性がおりました。そこで、今世においては、好きな男性が手近にいないという環境ができたわけです。これもまた、魂の勉強材料であります。好きな人が手近にいないので、胸が苦しい。思いは苦しい。別れていることほど、こんなに辛いことはないとこの女性は思っているかもしれません。しかし、これはこれで、また、この人のカルマの刈り取りの勉強なのです。 彼が毎月、数百万円も送ってくれたり、宝石類をプレゼントしてくれるとのことですが、これはね、昔の王様とお姫様ではないけれども奥さんだったわけですからね、そういう関係ですから、こういうこともあるでしょう。彼も彼なりのカルマの刈り取りはやっているのでしょうが、どうも、そういう金銭関係の影響はあるようです。 ですから、彼が送ってくれるものに関しては、貰っておけばいいのです。どんどん貰っておけばいい。安心して、気にしないで、貰っておけばいいです。彼は彼で、惜しみなく金を供給するということ、物質を供給するということに生きがいを感じているのです。向こうは向こうで、それで自分の人生を生きているのでしょうから、別に気にしないで、それを受け取ればいいです。 来世で、男女の法が説けるような人になりなさい それからですね、この女性は、こういう男女の関係を通して、男女の法を説きたいと言っておりますが、まあなかなかね、経験はあってもね、なかなか男女の法というものは説けないものです。 日蓮のように、女性の経験がなくても、男女の法を説ける人もいれば、何千人の男性を知っていても男女の法を説けない人もいる。この女性は、まだ人に法を説くことは、おこがましいようであります。それよりも、もう少し自分自身の問題をかたづけていくことです。その必要があります。ですから、この女性には、まだ男女の法を説くことは無理ですね。もう一度生まれてきて、次回でやられたらいいと思います。 婦人科系の病気の原因は、心のなかにある それからまた、十五、六歳頃から病気がちで、いつもはっきりしない病気だったとのこと。とくにこの五年間は、大病をしたりして、大変苦しんだ、と。婦人科系の病気が多いということですね。この原因を申し上げます。婦人科系の病気になる原因は、実は、外部にありません。この原因は、この女性自身の心のなかにあります。 この女性は、過去三回、失敗といっていいかどうか知りませんが、とにかく、転生輪廻において同じような失敗を犯し、三回ともに、見事に地獄に堕ちて、何百年も勉強しています。しかし、どうやら四回目になって、ちょっと上がってきつつあるのです。そこで、今世において、神理を多少なりとも、昔取った杵柄(きねづか)、ソクラテス時代に習った杵柄かもしれませんが、神理を学んだために、良心の痛みというものが激しくなってきているのだと言えます。 こういう婦人科系の病気というのは、決して外部からきているのではない。この女性自身の念がつくってきているのです。つまり、この方自身のなかの良心の部分が、いいですか、良い心の部分が、この方を苦しめているのです。そして、自分自身の良心が、自分を罰しようとしている気持ちが、こういう婦人科系の病気になるのです。 ですから、自分が常々悪いことをしようとしているのではないかと思いながら異性行為をしていると、だいたいは、婦人科系の病気になります。まず、間違いありません。 また、この女性は、非常に念を受けやすいタイプのようであります。この方は、現在、つきあっている彼から念がきているとどうやら思っているようですが、この念は、今の彼だけでなくて、彼女が過去につきあった何人、何十人という男性、そのすべての念がきているのです。生きている人間でも、念は持っております。そこで、この女性に対する恨みの念、あるいは、この方に対する執着の念、愛念、こうしたもので、やはりがんじがらめになっているのです。 あなた方は、念というものが、どういうものかわからないと思いますが、念とは、非常に物質的、物体的なものなのです。念というのは、たとえて言えば、トリモチみたいなものです。そういう念、たとえば、この女性に対する執着の念、愛着の念というものを、一人の男性が強烈に持つと、その念は、どうなるか。すなわち、トリモチのようなものが、飛んでくるわけです。そして、この女性の体の部分につく。この女性には、主として婦人科系を中心として、そうした念がいっぱいくっついております。 私の眼から霊視すれば、まあ、おもしろいです。トリモチの山みたいになっている。トリモチという言い方が悪ければ、こう言ってもいい。つまり、この女性を寝かして見ると、おなかの上から下半身にかけて、アイスクリームの山みたいのが、いっぱい出ている。白いネバネバしたそういう念がたくさんくっついています。そして、そうしたものがくっついて、体の調子が悪くなるのです。外部的なものとすれば、念が集中しておる。それも、とくに女性の大事なあたりに集中しております。 この女性の彼はエネルギッシュなタイプで、彼女は、それにずいぶんまいっているようです。これはけっこうです。これも彼女にとっては、勉強だと言えます。生きているうちに、セックスをいやなものとか、困難なものとか感じるのは、これは非常な進歩です。この女性の場合、生きているうちは、ほとんど極楽のうちに終わった場合が多い。セックスというのを極楽だと思って死ねば、地獄というのがパターンなので、今世においては非常に早いパターンで学習は進んでいます。この方の前世において、あのような地獄で、ライオンに犯されるような苦しみを受けているのですから、今、生きているうちに、ライオンがわりに、アメリカの大きい体の男性が出てきて、この方を犯してくれているのですね。 この男性は、そういう意味で、観世音菩薩みたいなものです。ですから、感謝しなければいけませんね。この方の今世において、そういう体の大きい男性に経験させられることによって、来世でライオンなどに犯されないですむ。そういう、早い学習を受けているのです。彼がエネルギッシュであることに対して、感謝の念を持たねばなりません。 「おかけさまで、すいぶん悟らせていただきました」という気持ちを常に持たねばいけません。 お腹のなかに、血の池地獄ができている この女性の体のなかには、現在、一つの地獄界ができております。よく皆さんは、血の池地獄ということを言いますが、しかし血の池地獄というのは、この地上を離れた天空のどこか一箇所に血の池や地獄があって、そこに、いろんな霊が住んでいるのではないのです。血の池地獄というのは、生きている人間の心のなかにあるのです。 生きているうちに、いろんな男性と係わってきた女性というのは、自分の子宮のなかに、血の池地獄ができているのです。要するに、女性の情欲だけに興味を持って、それに溺れて地獄に堕ちた男性のほとんどは、色情地獄という念を持った女性のお腹のなかに、子宮のなかに、小さくなって、住んでいるのです。そのなかを泳いでいて、自分は、血の池地獄にいるなと思っているのです。 ですから、この女性のお腹のなかにはね、今、そうした小人みたいな地獄霊、色情地獄霊というのがいる。私が見てみると、三十人くらいはいます。彼女のお腹のなかに、他の人間が住んでいるのです。他の霊が、ちっちゃな小人みたいになっちゃってね、お腹のなかに住んでいる。三十人くらい住んでいますね。こういうのがいっぱいいたのでは大変でしょう。この女性の体の調子が悪くなるのも当然です。これが現状です。 残りの人生で、神仏への愛についてしっかり勉強しなさい さて、この女性の残りの人生と、来世への伝言ということで、最後を締めくくってみたいと思います。残りの今世は、まだ、何十年かあるようです。どうして生きていけばよいかということですが、今の彼とのつきあいはまだ続くでしょう。中国からの縁ですから、まだ続きます。 ただ、さきほども私が言いましたように、彼の家庭を思いやる気持ちを持つことです。彼の奥さんや子供を苦しめないようにしながら、自分は彼自身に甘えるという関係、これ自身はけっこうです。これはけっこうですが、そうしたなかにおいて、この女性には家庭的な愛というのは無理かもしれませんが、それでも、真の愛とは何かということを、一生かかってつかんでいってほしいと思います。彼は、一生面倒を見るとのことですが、この女性が六十、七十歳のおばあちゃんになってもまだ面倒を見てくれるということはないでしょう。ただ、一生、困らないだけの物質的援助は受けられるはずです。 ですから、今後の人生において、路頭に迷う心配はありません。身の周りの世話をしてくれる人がなくて、一人ぼっちになるということは考えられますが、こうした人は、他にもたくさんいらっしゃいますから、それに関しては、この方が自分で考えていかなければなりません。一人で生きていくには、どうすればよいか。こうした老後の心配は、三十代からしておくものなのです。これはまた、別の問題です。 この女性の前世のイタリア時代は、全然問題外です。中国時代も問題外の生き方をしております。しかし、ソクラテスの時代、ギリシヤ時代ね、二、三人ちょっと迷わせたようですが、少なくとも、この時代には、法を求める心、気持ちがありました。ですから、中国時代、イタリア時代にくらべれば、多少魂は、もう少し上の階段にあったと言えます。 そこで、私が、この女性に申し上げたいのは、今世においては、仏の弟子たちを迷わせないで、何とか神理を少しでも学んでいただきたいということです。本当の愛とは何か。男女の愛だけでなくて、愛には段階があることも。男女の愛を超えた愛があるのです。男女の愛を超えた同胞愛があり、隣人愛があり、社会愛があり、国家愛があり、また神仏への愛がある。そうした大きな愛があるのです。この女性は、愛の天才なのですから、今世では、男女の愛を人に教える前に、本当の愛とは何なのかを勉強してほしいのです。 今世では、与える愛についてしっかり勉強しなさい これだけ、大きなカルマを持っている方ですから、そう簡単にそれを刈り取れるわけではありません。そして、今のままいくとどうなるかというと、私が見た感じでは、今回は昔よりはましとはいえ、地獄に堕ちて、だいたい百五十年くらいはいる勘定になります。私が読むかぎり、百五十年。ちょっと短いですね。しかし、百五十年くらいは、地獄へ行きます。この方が行く地獄はどこかというと、そうですね、どうもやっぱり色情関係のようです。ですが、ここもベテランですから、あまり長くいる必要はないのです。何回も行っているんですからね。 とにかく、今のままでいくと百五十年くらいは地獄に行きそうです。しかし、残りの人生が何十年かあるのですから、この間に、どうかしっかり、本当の愛とは何かということを勉強してください。ソクラテスの弟子を狂わせないようにして、今度は神理伝道でも一生懸命手伝えば、この女性の人生はずいぶん向上するはずです。そうすれば、百五十年を、もうちょっと短縮するか、あるいは、地獄へ行かなくてもすむかもしれない。いずれにしても、この方のこれからの勉強次第です。 この女性は、神理伝道のお手伝いをすればいいのです。今の彼から、どんどんお金でも、宝石でも貰っておきなさい。しかし、そうしたお金で自分が贅沢をするのではなくて、困っている人を助けるなり、もっと法のお手伝いをするなりなさい。その仕方は、いろいろあるはすです。全部喜捨(きしゃ)してしまって、自分はルンペンになれと言っているのでは、もちろんありません。この女性は、ルンペンを始めると、また娼婦か何かになってしまうでしょう。それではいけない。それでは困るのです。そうではなくて、自分の生活設計は十分あった上で、彼から貰ったものは前世からの縁ですから、これは遠慮なく使えばいいのです。 そういうことで、少しでも多くの人に、いいですか、愛を与えるような生き方をしなければいけません。物質だけが愛ではありません。この女性は、愛を貰うということに十分長い間、執着してきたのです。この方といわず、一般に女性はそうですが、人から愛をいただくということばっかりに執着しがちです。だから愛を与えることに目覚めることが少ないのです。しかし、今世においても、とくにこの方は、与える愛ということをしっかりと勉強していただきたいと思います。 真実の愛に目覚め、迷っている女性たちの導きの光になりなさい この方は、しっかり長生きして、いい奥さんになり、いい女性になり、いいおばあちゃんになることです。そして、世の人びとから、男女の法を聞きにこられるようなおばあちゃんになったら、この方は、霊的に向上されると思います。まだチャンスは十分にあるのです。人間の運命とは、決まったものではありません。過去のカルマに、どうしても引きずられていきがちです。それが傾向というものであります。今世でもそういう傾向がありますが、幸いにしてこの女性は、異国の地に彼がいて、彼の家族があり、いつもは会えないというハンディがある。また、神理が身の周りで説かれているという状況があります。そこで、どうかそのような情況を客観的に見て、過去世の自分のカルマを見て、どういうふうにしていくのがよいか、判断していただきたいと思います。 この方が、そうした人生を生きることによって、世の迷っている女性たちに対して、一つの生き方の参考を見せることになるでしょう。あえて人に教える必要はありませんが、この方が、そういうことを悟ることによって、一つの生き方の手本というのを見せてほしいのです。この方の他にも、今、色情地獄にうごめいている男性、女性がいっぱいおります。そういう人たちは、どうしたら地獄から逃れだせるか、今も迷っているのです。ですから、今世において、立派な女性になって、そういう地獄から見事に逃れ出して、そういう男女の導きの光となってあげてください。 (1986年9月20日の霊示)
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目次 1.我、魔軍掃討の指揮官なり 2.大救世運動計画の秘密 3.魔軍の総攻撃による混乱 4.今ここに、わが使命完遂を誓う 1.我、魔軍掃討の指揮官なり 2.大救世運動計画の秘密 3.魔軍の総攻撃による混乱 4.今ここに、わが使命完遂を誓う
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目次 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 2.ユートピアを阻(はば)むもの 3.ユートピア出現のための公式 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 さて、以上で、現代日本のあり方を踏まえたユートピア像をお話しいたしましたが、これからほんとうにどういう世界が展開してくるのか、どういう世の中になってゆくのか。また、どうしたものに、値打ちがあるとされていくのか。このユートピア価値についての話をしてみたいと思います。 まず、最初にいっておかなければならないこととして、私たちは、神理価値という言葉をよく使っています。神理価値とユートピア価値は同じなのか、違うのか、このあたりについて、誤解・混乱もあることでしょう。さすれば、ここで説明をしておきたいと思うのですが、もちろん両者は重なる部分もあります。また、同じように使っていることもあります。しかし、違うところがあるのです。 神理価値とは、時代を超え、地域を超え、あらゆる場所において、環境において揺れることのない価値、すなわち神の正法神理そのものの値打ちのことをいいます。これは、いかなる時代が来ようとも変わることはありません。これを法価値と言い換えてもよいでしょう。正法神理、久遠の法は、その値打ちを滅ずることはありません。いつの時代も同じものが人類の歴史を貫いて流れています。 ユートピア価値も、たしかにこの流れのなかに現われてくるものですが、しかしながらユートピア価値のユートピア価値たる所以(ゆえん)は、その時代性と、地域性、また集まっている人のその集団としての性格に大きく影響されることがあるということなのです。これはどういうことかというと、神理価値というものが、本来は存在の価値、それ自体存在することが値打ちのあることであるという価値であるのに対して、ユートピア価値とは、存在価値ではなく、行為価値、行為をするその実践のなかに生ずる価値であるのだ、ということなのです。ここに違いがあるのです。 神理価値を存在価値というふうにもいいましたが、別な言い方をするならば、精神的価値というふうにいってもいいでしょう。精神の問題です。メンタリティーの問題です。これが神理価値です。もちろん、思いと行動とはつながっているものですから、両方とも共通したところはあります。基底にはありますが、ユートピア価値とは、実践に転じるところにおいて生じる行為の価値なのだということなのです。ここが、大きな違いです。 したがって、行為に転ずる、実践に転ずるというこの観点があるがために、時代性、地域性、あるいは集まった人たちのその群れの性格というものが影響することになります。そのような時代と地域と人という要素を抜きにした実践ということはないからです。かならず、真実の神理価値は同じであっても、その場所・時代・人、この三つの要素とその組み合わせによって現われ方は変わらなければならないのです。すなわち、本来の神のお心をいかなる姿で地上に現わすか、具現するか。その具現のしかたの過程において、生じる価値のことをユートピア価値といっているのです。このユートピア価値は、やはり、大きく考えるならば、そのなかにも、精神的なるものと、結果的なるものとがあると思います。 すなわち、ユートピア価値は、ふたつの要素から成り立っているのです。一つは、動機です。いま一つは結果です。動機としていかなる動機があったか、結果としていかなる結果が出たか。この両者を満たしたならば、ユートピア価値はあったといえるのです。動機のみ値打ちがあって、結果が生じなかった場合は、未完成品です。動機が違っていたが結果だけOKたった、まあこういうこともないとはいえません。 竹薮から二億円が出てきたが、それが実際、社会福祉のために、ほんとうに使われたというのなら、まあこういうこともいえるでしょう。そういうことも絶対にないとはいえないでしょうが、そのようなことを期待するだけでユートピアができるはずもありません。 このように、動機の部分と結果の部分、両方の完成をもってユートピア価値は成り立ちます。もちろん、さらに三分法で考える人であるならば、動機、過程、結果の三つでとらえることも可能でしょう。しかし、話を簡単にするために、動機と結果の二つに分けて話を進めてみたいと思います。 すなわち、これから提唱しようと思っている考え方は、みなさんの行動の価値基準の問題なのです。今までみなさんは、どのように行動してこられましたか。あるいは、生きてこられましたか。今日、一日というものをとりあげたときに、今日一日どのような意思決定をされましたか。そしてどう行動されましたか。どういう経路で、ここにたどりつかれましたか。 今日一日の思いと行動の連鎖はどうでしたでしょうか。あるいは、今日に至るための過去数十年の人生は、どうでしたでしょうか。そのときに、みなさん方の行動を支配していた考え、規律していた考え、それは何ですか。みなさんは、何に基づいて判断をし、そして行為を選び取りましたか。その結果、いかなる反応、あるいは成果が現われましたか。何をもって、みずからの行動のための、生きていくための実践基準とされましたか、私はこれを問うているのです。 みなさんが、たとえばある講演会に行かれたとします。そのとき、そこへ行くことを決めた動機は何ですか。そうして、その動機に基づいて、そこに来たという結果が出るわけですが、来てそれはどうなったのでしょうか。この二つが問われるわけです。まず、会場に来ようと思いたった動機のなかに、いったい何があったか。その動機のなかに、何かあったかを考えていただきたいのです。そのときに、「金曜の夜はひまだなあ。世の中の人びとは花金とかいって、どこかへ行くらしいが自分には誘いもない。お金もない。ここなら、まあお金もたいしてかからないし、飲み食いするわけでもないし、まあ何とかなるだろう。」などと時間潰(つぶ)しのために来た人もいるでしょうが、動機が不純です。だめです。動機のところでやはり問題があります。「行くところが無いので来た。」とか、「雨やどりに来た。」とか、このような理由もだめです。動機においてだめです。「何かいいことでもあるのではないかと思って来た。」このあたりもちょっと不透明です。まだ、ちょっと曇っています。そのようなところもあります。「会員になったから、一回ぐらい出ないと損をするから。」というのもちょっと動機不純です。だめです。その動機を考えていただきたいのです。「同じように会費を取られているのに、東京の会員のところにはたくさん行く機会はあるが、地方の会員のところにはめったにないので損をしている。だから取り返さねばならない。」このへんはやはり、あまり天国的な考え方ではないと思われるわけです。そのように、動機の部分を点検していただきたいのです。いろいろあると思います。 そのときに、やはりこのチャンスを生かして、自分を変えていこうとし、その変えた結果、向くべき方向として、何らか世の中に還元できるような、世の中に対してよき影響を与えるような自分になりたいなと思って来るのであれば、まあまあ合格圏内に入っているわけです。「講演者の顔つきを一回だけ見てから帰ろう。」など、これではだめです。こういうのは失格なのです。「連続セミナーの講義というので、珍しいから来てみよう。」とか、まあこのようなのもちょっとあぶない感じです。このあたりをよく考えていただきたいのです。 また逆に、気持ち、動機の面においては、たしかによい動機で来られた。「ヨシ、これで何かを勉強してつかんで、そして、職場に帰ってあるいは家庭でこれを実践に転化してがんばろう。」と思ったが、思ったに止まった。帰ってみると何を聞いたか忘れてしまった。まあこれはやはりだめです。結果のところでだめなのです。動機はよかったが結果までいっていない未完成品です。思いとしては、たしかに残ります。残りますが、これは点のようなもので、テンテンテンと点が続いているものです。あるいは、表現はよくないのですが、にわとりのフンみたいなもので、ポンポンポンポンと落ちているだけで、何の役にも立たないのです。通った跡だけはわかりますけれども、なんの役にも立たないのです。道路のように舗装をきっちりとするならいいけれども、にわとりのフンでは何の役にも立ちません。 このように、大きく考えるならば、動機と結果の二つに分かれるのです。 2.ユートピアを阻(はば)むもの ①結局自分に返ってこないと満足しない心 ユートピア価値を成り立たせるものは、動機と結果の二つに分かれるが、このユートピア価値そのものがめざしているものは何なのか。ユートピア価値と反ユートピア価値というべきものがおそらくあるでしょう。ここを見分けるのはいったい何であるか。これについて話をしておきたいと思うのです。 これはユートピアを阻害するものといった考えにもなるかもしれません。ユートピアを阻むもの。こういう考えにも、おそらくなるでしょう。ユートピアを阻むものとはいったい何であるか。これを見抜いて、その反価値に対して、抵抗しなければならないわけです。 ユートピアの実現を阻むもの、それは、大きくいって二つあると思います。一つは、自分自身の問題です。自分自身の問題として、ともすれば、すべてが自分に返ってくることを願う気持ちがあります。何だかんだいい、「思いだ、行いだ」といっているが、けっきょくは自分に返ってこないと満足しないという思いがあります。抽象的にいうならば、そういうことです。自分に返ってこなければ、やった値打ちがないと思う心です。これが、やはり一つあると思うのです。 それは、たとえば、ほんのちょっとした違いだと思うのです。紙一重の違いだと思います。たとえば、私が何かの講演をするといたしましょう。これはスケジュールを組んであるからするといえばそれまでです。そして、講演会場に来ました。二時間の時間を頂戴したとしましょう。そこで、私が考えることは、私も毎週、毎週行事をやっているわけです。先週も地方へ行きました。今週も行きました。今月末もまた行きます。ちょっと出前のそばのようなものなのです。少し値打ちが落ちているのです。あまり行くものだから、出前そばのようなもので少し値打ちが落ちているのですけれども、そうするとどう考えるか。「まあ何回も講演するのだから、一回や二回手を抜いてもいいのじゃないか。」とまあ、気持ちはうずくこともあります。 しかしながら、せっかく時間を二時間いただくのだから、そういう自己保身に生きるより、手は抜くことは抜くが、抜き方にも問題があるだろう。やはり上手に抜きながら、やはりためになる話をするのが芸術的なやり方ではないのか。そのような妥協点を出すという考え方もあるわけです。 ですから、同じく二時間の講演をするのに、とにかくやればいいのだ、行事を消しこめば、消化すればいいのだという考えもあるでしょうが、せっかく来たのだから、集まられた大勢の方に何かつかんで欲しいなと思う気持ちがあるかどうか、これは神様が判断しているので、その評価は私にはわかりませんけれども、同じようにしてもそういう判断がやはりかならずあるわけなのです。そして、それが動機の部分なのです。 そして、結果においてはやはり二つに分かれるはずです。結果においては、講演会場に訪れたみなさんは「ああ、よかったな。」と思いつつ、帰る道にもう忘れてしまったという人が多いか、それとも何か種火のようなものを心のなかに残して帰れたか。やはり、結果は二通りあります。私の仕事においても、やはりそれは働いてくるわけです。自分だけに返ってくる心、すなわち講演に来て、みんなに「ああ、いい講演だった。」といわれたいというそのことのためだけに来ているかどうか。そういう気持ちで来ているか、受講料がいくらか知りませんが、「高かった。」といわれないためだけに来ているか、とかいろいろあるでしょうけれども、このへんは、やはりかならず何らかのリトマス試験紙にかかっているのです。かならす、はかられています。 一つひとつの行動に関する思いですが、全部これは毎日毎日、一日のなかでも一時間、一時間のすべてにほんとうはフィルターがあるのです。神様のリトマス試験紙が試験管のなかに、私のなかに入っているのです。赤くなったり青くなったりいろいろ変化しているのです。変色しているのです。かならずこれは、調べられていることなのです。みなさんも同じなのです。 ですから、まず、反ユートピア価値としては、自分自身にすべての結果を期する心がないかどうか。これが一つの点検です。 ②他人の不幸を喜ぶ心 もう一つは何であるか。これは、ひじょうに悲しい話ですが、自分以外の他人に対する思いとして、他人を現在より低く評価する、あるいは他人が失敗をする、何か他人のグレードが下がることによって喜びを覚えるような気持ち、これが出てくるかどうかということです。これが明らかに反ユートピア価値なのです。 すなわち、ユートピア価値のなかには、抽象的にいうならば、心の価値、心のなかのユートピアと、あるいは実際、具体的な実社会における活動、あるいはその結果としての共同体としてのユートピア、こういう内と外、私と公の両方があるわけですが、これを精神価値として話をするならば、自分に成果を帰する心、これがあるかどうかと、他人をおとしめる心があるかどうかの点検です。大きくいえば、この二つです。他人をおとしめる心は、これもまあけっきょく自分だけが残ることになりますが、このようなものは少なくとも社会において有用なるものを生み出すという力には絶対にならないということです。 他の人が下がっていく、不幸になっていく、こういうものを見て喜ぶ気持ちがもしあったなら、これは明らかにユートピアの価値として、よき理念によって、思いによって、理想によってよきものを、よき建造物をつくり出すという、この考え方に反しているのです。 ですから、きわめて消極的な判定かもしれませんが、まず自分自身に成果を帰する心がないかどうか、また、他人を害するか、他人の不幸を喜ぶ気持ちがなかったかどうか、これはぜひとも点検していただきたい項目なのです。これがあるうちは、ユートピア価値の名のもとに行動しているとはいえないのです。 この二番目のことについてさらにいうならば、逆にいって、他人が上がることによって、おもしろくないという気持ちがあります。破壊的になる気持ち、極端にいえば暴れてみたくなる気持ちとか、いろいろありますけれどもこういうところをいえば、これもやはりユートピア価値ではないのです。他の人が、すばらしい服をプレゼントされて、うれしそうに着ている姿を見て、「何だ、あんな服。」といわなければならない心は、明らかにユートピア建設の逆を行っているということです。それはすばらしいとやはり認めなければならない祝福の心が要りますよといっているわけです。 他の人が出世をしたのを見て、「きっとゴマを擂(す)ったに違いない。」といいふらさなければ気がすまない心は、これはすでにもうユートピアをつくる力はないということです。他の人が出世したのなら、喜んであげることです。そして、なぜ出世したのかをよく考えて、自分に足りないところがあれば学べばよいのです。自分もそのようになろうとする心がだいじです。祝福の心が大切です。これは何度もいっているとおりです。これもユートピアを創っていくための力なのです。 この二点を、ますチェックしてほしいのです。これがユートピアに反する価値なのです。この二点です。 3.ユートピア出現のための公式 そして、さらに積極的なユートピア価値として、私たちが目標とすべきものはいったい何であるのか、これをユートピア価値として掲げるべきであると考えるものは、何であるのか。それは私たちは、まず他人の喜びを自らの喜びとすることができる、そういう心境を確立するということかだいじであると思います。個人の目標としては、他人の喜びを自分の喜びとすることができる、この心境をぜひとも確立する必要があります。これは、積極的なユートピア価値です。他人の喜びを自らの喜びとする。そう公言してけっして恥ずかしくない気持ちになったとすれば、これは大きな力です。これはユートピア推進のための原動力なのです。他人の喜びを自分の喜びとする。こういう人で世の中が満ちなければ、ユートピアは絶対にできないのです。 一人が幸福になれば、他の人が不幸になるというような関係であれば、世の中はほんとうに幸福に満ちることはないのです。そういう、パイの取り合い、ゼロ・サムのゲームではけっしてないのです。他人の喜びを自分の喜びとして喜べる人が溢れてこそ、ユートピア世界はできるのです。そのときに理想世界はかならずできるのです。まず、これは第一点として、肝に銘じていただきたい。他人の喜びを我が喜びとする、その心境をぜひともつくる。この考えがだいじです。 第二点は、自分の一生をかけてのこのユートピアに向ける仕事量です。これを最大限にするということです。一生をかけての仕事量とは、自分の人生の長さがあります。人生の長さ、五十年の人も八十年の人もあります。この人生の長さに掛けるところのユートピアに対する能力係数というものがあります。ユートピア係数です。これはある意味でいえば霊格です。六次元から来た方、七次元から来た方、八次元から来た方、こういう霊格があります。 ですから、ユートピアのために使った絶対時間、五十年であれば五十年掛けるところの、ユートピア係数、たとえば八次元から来たならば、〇・八、七次元ならば〇・七、六次元なら〇・六、五次元であるなら〇・五、四次元はちょっと難しい、〇・四ないしはマイナスのどちらかですが、マイナスがつけばその他の項はプラスなので、残りの項のすべての積としてはマイナスになります。どちらかです。 すなわちユートピアのために使った絶対時間、この時間掛けるユートピアヘの能力係数なのです。そして、さらには掛けるところの情熱です、これが入るのです。情熱の量、この総量がこれにかかってきます。これが公式です。 ユートピア出現のための公式は、このユートピア建設のための仕事量、この総量を、各人における総量をもちろん増やすとともに、全体における総量である、このユートピア建設のための仕事量の総合量をどうしても増やす必要があります。 そうしてみますと、今の考え方、まず年数、これはもちろん寿命と考えれば各人決まっていますが、ユートピアの建設にめざめてから活動した時間と考えれば、それは伸び縮みはします。長くすることもできます。短くすることもできますが、いろいろあります。十年、二十年、三十年、それは人によって違います。ですから晩年になっている人、これはもう短いです。五年か十年しかない。若い人の場合はこれが長いという有利さが絶対にあります。若い人の場合、五十年ある。晩年なら五年か二年か一年しかないかもしれない。ここはひとつ公式の上にいれてください。この年数が入ります。 そして次にくるものは自分の心境です。まあ共鳴し学ばれている方であれば、いろいろ試験も受けられたり、人と話をされたりしてだいたい推定がつくかと思いますが、学んでおられるみなさんというのは、最低限六次元ぐらいの心境でありたいとは思っていますから、五次元であると自分を思っている人はあまりいないのです。みんな六次元、最低六次元の下段階ぐらいには入っているとたいてい思っているのです。そう思わなければ、学びには来ないのですから、たいていは思っているのです。一応そのぐらいに考えているでしょうから、そう思える場合は〇・六ぐらい掛けてけっこうです。六次元のなかほどにいると思えば、〇・六五でもけっこうですし、ほとんど七次元と思えば○・六九でもけっこうですけれど、まあそのぐらいだと思ってください。そして、あとは情熱の量です。 そうしますと、実際に出てくる仕事量という結果は霊格とかならずしも比例しないのです。どうですか。みなさん、霊格はいろいろあるのに仕事量が違うのが不思議に思うでしょう。それは、この公式によるのです。すなわち、かなり最後になってめざめた場合には仕事量としては減ります。年遅くしてめざめた場合には仕事量が滅ります。あるいは、霊格が高くとも年数が少ないか、あるいは情熱が少なければ仕事の総量は減ります。霊格的に能力係数は低くとも、年数が長く情熱が大きければ仕事量としては大きな仕事ができるのです。 ですから、この掛け算において最高の結果を出すようにがんばってほしい。さすれば、五次元の住人であろうが、六次元の住人であろうが如来、菩薩に匹敵するような仕事もできないわけではないのです。総量としては、それだけの貢献ができないわけではないわけです。この総量を増やすことこそが、実際はユートピア世界を建設するための大きな力になるのです。
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目次 1.聖母マリアの三つの役割 2.聖母マリアの奇跡 3.聖母マリア復活の意味 1.聖母マリアの三つの役割 2.聖母マリアの奇跡 3.聖母マリア復活の意味